読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

徒然花

生きる意味を求めて

「居場所」について

《世界》への手触りを取り戻すための

最初のステップが見えた気がするので、

文章にまとめてみたいと思う。

 

《世界》とわたしが分断されている、

ということを

前までの記事に書いてきた。

参考:《世界》とわたしの分断 - 徒然花

 

要するに、

失敗や敗北感によって傷つく

ということに恐怖するようになり、

《世界》にどんどん無関心になり、

生きる気力すら失ってしまう状態のことだ。

 

そういう状態になると、

無気力・無関心が平常の常態になるので、

どんどん悪化していくと

引きこもり、ニート、フリーターなどの

社会現象を引き起こす。

 

では、

どうすれば、

《世界》への手触りを取り戻すことができるのか。

 

 

それは、「居場所」を見つけることだ。

 

 

今回の記事は、

この「居場所」がどんな場なのか見ていきたい。

 

 

 

まず、

「居場所」とはどういうところか。

 

それは、

無条件にそこにいることが許されている場

ということができる。

 

例えば、逆に、

無条件にそこにいることが許されていない場を考えてみると、

遊園地や会社がそれに当たるだろう。

 

遊園地は

入場料・入園料を払っているから、

そこにいることが許されている。

 

会社は、

会社に何かしらの形で貢献するから、

そこにいることが許されている。

 

上に書いたものは、

何かを対価に条件を満たすことで、

存在を許されている場所となる。

 

だからこういう場所では、

当然「無条件に」ここにいていいんだ

ということにはならない。

 

そうなると、

無条件にそこにいることが許されている場とは、

対価や条件を求めない場のこと。

 

わたしは最近、

この「居場所」を感じることがあった。

 

心地よい音楽が流れる中、

気が置けない間柄の人たちとテーブルを囲んで、

お茶を飲み、お菓子を食べ、冗談を交わして、

何をするわけでもなく時間がゆったり過ぎていく、

 

そんな何気ない時間と場が

わたしに「そこにいていいんだ」という

居場所を感じさせてくれた。

 

その場には、

何も目的がなかった。

 

そして、

何も求められることはなかった。

 

「そこにいる」

 

ただ、それだけでよかった。

 

この時間と場は、

わたしに「〜をしなければならない」

という義務感から解放してくれた。

 

また、

心を開ける人たちだからこそ、

そこにいる「だけ」が可能になった。

 

わたしにとってこの時間は、

あったかいと感じた瞬間であり、

安心を感じた瞬間であり、

ここにいて、もっと言えば、生きていていいんだと

感じた瞬間だった。

 

 

 

居場所とは

無条件にわたしを

この《世界》に包み込んでくれている場だった。

 

無条件に受け入れてくれたからこそ、

無条件に生きていていいんだと思えた。

 

生きる意味を求められず、

存在価値を問われず、

ひたすらに「そこにいる」ことを

受け入れてもらえた。

 

この体験は、

わたしが今日生きる根拠ともなりうる、

大切な体験の1つとなった。

 

《世界》と分断されていると感じていたのが、

《世界》との接点を得られた感じに変わった。

 

 

 

分断の解消は、

この「居場所」にヒントがありそうだ。

 

「居場所」については、

いずれまた別の切り口から書きたいと思う。