徒然花

生きる意味を求めて

《世界》とわたしの分断

《世界》とわたしの分断

と題したが、

これがわたしの今の実感だ。

その実感を説明してみたい。

 

《世界》とは、

この世のこと。

この地球の上で送る、

時間や空間を指している。

 

それが、

わたしと分断しているのだから、

切れてるわけである。

関係が持てていないのだ。

 

例えば、

食べるもので言ってみたい。

 

わたしは、

食べるものは

正直何でもいいと思っていた。

 

オーガニックな野菜を食べようが、

カップラーメンを食べようが、

お腹に入れば同じ食べ物で、

別段気にも留めていなかった。

 

気に留めていなかったのは、

自分とは関係がないと思っていたわけで、

要するに無関心だったわけだ。

 

無関心だったのは、

周りの環境も影響していた。

 

どういうことかと言えば、

コンビニやスーパーにはお弁当が並び、

マクドナルドやすき家は、

夜遅くまで営業している。

 

お金さえ払えば、

食べるものに困らず、

更には、

「減塩」や「脂肪30%カット」などと

書かれた弁当などを買えば、

健康に気を遣っているような気にさえなれた。

 

もうこれは、

一事が万事で、

着るもの、

見るもの、

聞くもの、

話すもの、

読むもの、

仕事の仕方、

生活サイクル、

日曜日の過ごし方、

人間関係に至るまで、

様々なことに無関心だったのだ。

 

あらゆるものに関心がなく、

関心がないからこそ、

生きていることに

楽しみも面白みもなかった。

《世界》は常に色褪せて見えていたのだ。

 

だからこそ、

生きることにそのものに

無関心になっていき、

自分の塞ぎがちな性格も相まって、

 

遂には、

このブログの最初の投稿に書いた

 

「自分はこの世に存在する価値がない」
「自分には何もできない(何もない)」
「現状が永遠に変わらない」

 

と思うようになった。

これは当然の帰結だった。

 

これは高校生のときには、

既にこんな気持ちに苛まれていた気がする。

 

それより少し前に、

「◯◯しても意味はない」とか

「◯◯なんて、所詮この程度だろう」とか

思うようになってから、

こういう気持ちが出てくるようになったことを、

書きながら思い出した。

 

わたしはプライドが高い分、

何においても「負ける」ということが

許せなかったのだ。

 

負けるのが嫌だったわたしは、

勝負をしないという秘策を思いついた。

 

それは、

勝負をしなければ、

負けもしないという妙案だった。

 

こうして、

あらゆることに対して、

「これはがんばっても意味がない」

「そんなにムキになって何が楽しいの?」

と斜に構えるようになった。

 

思い返せば、

これがわたしの、

《世界》との分断の幕開けだったのだろう。

 

こうして、

あらゆる関係を切っていった先に

わたしを待ち構えていたのは、

虚無感、閉塞感、絶望感、無価値観だった。

 

勿論、

表面上は、

普通の人を装う。

普通を装っている間は、

そういう感情から一時的にでも

逃れることができるからだ。

 

しかし、

普通という仮面は、

つけていると息苦しくなってくる。

 

しばらくすると、

息が切れて、

うつ病みたいな症状になる。

何もやる気が起こらなくなるのだ。

 

しばらくすると治るから、

また仮面をつけてがんばる。

 

そんな矛盾を抱えながら、

今日まで生きてきたのだ。

 

結局のところ、

世界との関わりが非常に薄くなり、

生きていても、

生きている実感がなく、

嬉しいと思えることも何もない、

そんな状態が続いていたから、

死んでもいいなと思うことは日常茶飯だった。

 

ただ、

死ぬ覚悟も勇気もないから、

今もこうして生きてる。

(ただ、死ぬ覚悟をすると、

何かが起こるということは何度かあった)

 

この死ぬ気はないんだけど、

ライトな「死にたい」という気持ちに、

長らく苦しめられてきた。

 

しかし、

今までとは逆のアプローチを辿れば、

この気持ちともおさらばできるんじゃないかと

最近は思っている。

 

その逆のアプローチというのが、

《世界》への手触りを取り戻すこと。

 

今、《世界》とわたしは分断されている。

それを再び関係し直す。

 

そうすれば、

月並みな表現になるが、

元気になるんだと思う。

 

わたしは、

ここに、今、

一条の光を見ている。