徒然花

生きる意味を求めて

「正しさ」が生み出す負の側面

前回の記事(「全能感」と「プライド」 - 徒然花)は、

「全能感」と「プライド」のからまりが、

わたしを身動きとれない状態にしてしまっていて、

 

そして、

その解決策は「20%で出す」という

経験の積み重ねだと書いた。

 

せっかく「全能感」について書いたので、

もう少しこれについて、

思いついたままに書いていきたい。

 

 

 

そもそも、

なんで「全能感」と「プライド」を

こじらせることになるのか、

という背景を書いてみたい。

 

これは、

「できないことが怖い」

ことが大きな原因だと考えている。

 

なぜ、

「できないことが怖」くなるのか。

これは、各個人の体験に深く結びついている。

 

わたしの場合は、

(と言っても多くの人が当てはまると思うが)

何かができないと

母親から怒られた体験と結びついている。

 

例えば、

おもちゃを散らかしっぱなしにした場合、

決まって「なんでできないの!」と怒られた。

 

こういう体験の積み重ねが、

「できないこと=悪いこと」

もしくは

「できないこと=自分が悪い」

というルールを生み出した。

 

最初は

「片付けることができないのは悪いこと」

と具体的だったのが、

 

「早く食べることができないのは悪いこと」

「宿題を期限内にできないのは悪いこと」

と、怒られながら、

できないことが少しずつたまっていく。

 

たまると、

抽象化されて「できない」だけが取り出され、

「できない」=「悪いこと」ができあがる。

 

そうすると、

萎縮しながら生活を送るようになるのだが、

縮んだものは膨らむのが世の常で、

バネは縮んだら、伸びる。

 

健康的に生活を送っている人は、

幼児期の反抗期と、

青年期の反抗期を経て、

その萎縮をある程度解消することができる。

それがバネの「伸び」の部分。

 

しかし、

反抗期が中途半端だったり、

何らかの理由で反抗期がない場合、

その萎縮は続いたままになる。

 

それは、

その人の中に澱のようにたまり、

様々な形で

その人の人生に吹き出物のように姿を現す。

 

例えば、

「自信のなさ」

 

「できない」が根底にあるので、

何においても「自信がない」。

草食系男子が増えていると言われるが、

一つの理由はここにある。

 

例えば、

「受け身」

 

ゆとり世代は積極性に欠けるとは、

よく聞く言葉であり、

わたしも極々一般的なゆとり世代の一人。

 

「できない」が根底にあったら、

「できない」わけだから、

手を出したくなくなる。

場所が会社なら、指示を待ってしまう。

 

そんなようなしこりを内に宿し、

心の準備が整わないうちに、

社会に放り出されるわけだから、

3年以内に辛くなって辞める人が多いっていうのは、

論理的な帰結に思える。

 

 

 

でも、

人には

「自信のなさ」や「受け身」という言葉からは、

ちょっと想像しにくいことも、

ここには含まれている。

 

それは、

「支配的」であることだ。

これが萎縮し続けた人の「伸び」の部分。

 

「自信のなさ」や「受け身」が生み出すものは、

内側の世界の充実だ。

要するにプライベートの充実。

 

ここで言うプライベートは、

私生活というよりかは、

「自分の世界(観)」と言った方がいいかもしれない。

 

自分の内側には、

完全無欠の世界が広がっている。

 

社交的でない人を

「オタク」と蔑んだ言い方ができるのは、

オタクは自分の世界が充実していて、

そこから出てこない人だという認識が一般にあるからだ。

 

自分の世界に浸っている間は、

「できない」ことを見なくて済む。

 

自分の世界は

自分が支配していられる

つまり、

自分にとって都合の良い

完璧な領域だからだ。

 

だから

自信のない人にとって

自分の世界とは、

自分が自分でいられる、

いわゆる絶対防衛ライン。

 

これを侵されたとき、

極端に出ると

キレたり、自殺したりする。

 

自分が支配していられる領域があると、

その人は安定する。

逆に、支配していられないと、

不安定になる。

 

支配に関しては、

外側に向くと、

権力欲や独占欲となって、

会社・組織なら『白い巨塔』や『半沢直樹』となり(←これ、なんて表現していいか分かんない笑)、

恋愛ならDVやストーカーになる。

国家間なら戦争。

 

わたしたちは、

多かれ少なかれ、

この「支配欲」のようなものと、

折り合いをつけていく必要がある。

 

 

 

「できないこと=悪いこと」は、

「自信のなさ」「受け身」「支配(コントロール)」などの

現象を引き起こしている。

 

では、

この「できないこと=悪いこと」は

どこから出てきたのか?

 

これは、

「正しさ」というものの見方から出てきている。

 

「正しさ」で判断すると、

問題がややこしくなってくる。

 

言い換えれば

「できる=正しい」、

「できない=間違い」となる。

 

後は簡単なことだが、

自転車に乗れるようになるには、

「乗れない(できない)」を一度通過しないといけない。

 

しかし、

そこに「できない=間違い」が入ると、

まじめな人ほど、

「間違えることはいけないこと」と考えるので、

自転車に乗れなくなるという現象がおきる。

 

これが、

前回の記事で書いた

全能感とプライドを
こじらせている人は、
「質」にこだわる傾向にあるが(←自分のこと)、
そういう人は圧倒的に「量」が足りていないことが多い。

 という点につながってくる。

 

わたしは、

この正しさに縛られている、

ということになる。

 

この正しさは、

親や学校の先生から

連綿と受け継がれている考え方だ。

 

この考え方が機能していた時代は確かにあった。

しかし、現代の日本には、

そのときの「正しさ」を基準とした考え方は

もう古くなってしまった。

 

それは

大人になっても

子供サイズの服を着ているようなもので、

さすがにそのままでいるのは窮屈になってきている。

 

これは、

イェフダ・アミハイという人の

詩の一部だ。

 

わたしたちが正しい場所に

花はぜったい咲かない

春になっても。

 

わたしたちが正しい場所は

踏みかためられて かたい

内庭みたいに。

「わたしたちが正しい場所」より

 

正しさは強力であるがゆえに、

弱さを排斥してしまう。

 

これからの時代には、

この「弱さ」がキーワードの一つになっていく。

 

「弱さ」については、

まだわたしの中でかたまっていないので、

いつか書こうと思うが、

 

とにかくこの記事では、

「正しさ」が生み出すものについて書いた。

 

これにどう接したらよいのか、

ということも書きたいのだが、

記事が長くなってきたので、

今日はこの辺で。