徒然花

生きる意味を求めて

「わからなさ」へと自分を開くことで、閉塞感を脱することができる

突然だが、

わたしの金銭的な側面を報告すると、

以下のようなものになるだろう。

 

職業:フリーター

年収:120万円

貯金:ほぼ無し

投資:勿論していない

資産:これといって無し

 

月の手取りは4〜6万円ほどだが、

実家暮らしなので、

この年収でも基本的には何不自由ない暮らしだ。

 

さて、

こういう話をすると、

以下のような言葉を頂戴する。

 

「もっと働いたら?」

「将来それでどうやっていくの?」

「あなたならうちの商品のネットワークビジネスで上手くいくはず!」

 

これらは至極尤もなお言葉で、

反論の余地はない。

 

だが、

このブログの最初に挙げた

わたしの金銭的な側面は、

今、この瞬間の、わたしの状態を切り取ったものにすぎない。

 

それに対して、

将来の不安を煽り立てるのは、

人間の論理的な思考によって結実した情報、

又は不安になるよう固定された思考傾向によるところが大きい。

 

簡単に言えば、

世の中にはわたしたちを不安にさせる情報がたくさんあり、

そういう情報を何度も目にすることによって、

自動的に不安になってしまうように脳が勝手に働いてしまうということだ。

 

例えば、

相対的貧困公的年金の世代間格差、

老後に必要な貯蓄額、大手企業の倒産・リストラなど。

 

果ては、

「お金持ち上位8人の総資産」と「下位36億人の総資産」が

ほぼ等しいというデータまである。

(出典:オックスファム・ジャパン(2016年度調べ))

 

因みに、2015年度の報告書では

「お金持ち上位62人」と「下位36億人」がほぼ等しいという内容だった。

 

閑話休題

そんな情報の中で論理的に考えたら、

「本当にこの先、生きていけるのか……」

と不安になること必至だろう。

 

最後の例は極端だが、

それでも「今のままの自分では生き残っていけない」という不安から、

投資や副業を始める人の気持ちは分からなくもない。

 

ここで一度立ち止まって考えたいのは、

この「将来の漠然とした不安」を感じた瞬間に、

わたし(たち)がとれる選択肢は何だろうか?

という問いだ。

 

不安を解消するために奔走するのがその一つだろう。

又は、その不安から目を背け、日常に再び身を埋めるというのも一つの手だ。

 

しかし、

ここに挙げた二つを、

わたしは選びたくない。

 

なぜならば、

どちらも根本的な不安の解消にはならないからだ。

後者は言うまでもないが、

前者は、どんなにお金を稼ごうが、

お金がなくなるかもしれないという不安から抜け出せるわけではない。

 

それに、

仮にその不安から抜け出せるくらいお金が手元にあったとしても、

わたしはそのお金を元手に更にお金を増やして立ち回るほどの

器用さを持ち合わせていない。

 

では、

わたしはどのような選択肢を選ぶのか。

 

今のわたしの現実への向き合い方を

鷲田清一という哲学者の方が

この上ないほどに適切な言葉で表現して下さっているので、

そこから引用したい。 

 

それは

「「わからなさ」をいただく」*1

ことであり、

「「わからなさ」へとじぶんを開くというかたち」*2

なのである。

 

これらの言葉の説明をする為に、

今少し鷲田さんの言葉に耳を傾けて戴きたい。

 

政治的な判断においても、

看護・介護の現場でも、

芸術制作の過程でも、

見えていないこと、わからないことがそのコアにあって、

その見えていないこと、わからないことに、

わからないままいかに正確に対処するか

ということが問題なのである。

 

そういう思考と感覚のはたらかせ方を

しなければならないのが

わたしたちのリアルな社会であるのに、

人々はそれとは逆方向に殺到し、

わかりやすい観念、

わかりやすい説明を求める。

 

一筋縄ではいかないもの、

世界が見えないものに取り囲まれて、

苛立ちや焦り、不満や違和感で息が詰まりそうになると、

その鬱(ふさ)ぎを突破するために、

みずからが置かれている状況を

わかりやすい論理にくるんでしまおうとする。

その論理に立てこもろうとする。

 

わかりやすい二項対立、

それも一方の肯定が他方の否定をしか意味しない

二者択一というわかりやすい物語に飛びつき、

それにがんじがらめになって、

わからないことにわからないまま

正確に対処するという息継ぎできない

潜水のような思考過程に耐えられないでいる。

 

眼前の二項対立、

二者択一に晒されつづけること、

その無呼吸に耐えてやがてそれの外へ出るというのが

思考の原型となる作業なのに、

その作業を免れるほうばかりに向かっている。*3

 

「わかりやすさに流れる」というのがよく現れているのは

テレビのワイドショーだろう。

複雑な現実を分かりやすく図やグラフにまとめ、

誰が悪人なのか、何が問題なのかを分かりやすく解説してくれる。

そして、なぜこの手の番組がなくならないのかと言えば、

それは、「求められているから」に相違ない。

 

勿論、ワイドショーに限ったことではない、

「ためになる」系のTVのバラエティ、

書店に平積みされている本の表紙、

yahooニュース・ブログ等のタイトル、

セミナーの講義タイトル、等々、

きっと、挙げればきりがない。

 

これは何も、

分かりやすいことがいけないと言っているのではない。

本来、分からない筈であるものを、

あたかも「こうすれば分かる」

「こうすれば解決できることである」

「答えがある」等のわかりやすい物語にくるんでしまうことで、

その人の思考回路を狭く、閉じたものにしてしまうということなのだ。

 

「そうは言っても、お金がないと、ご飯も買えないよ?」

「お金に不安があるから、お金を稼ぐ」

 

こういう反応は、お金の有無に価値を置く考え方から抜け出すことができない。

これらは、広がりのない閉じた思考になってしまい、

お金の有無に苦しみ続けることになる。

 

勿論、こういう思考傾向は、

学校教育による賜物だ。

学校で教えられている内容から、

仮説のものを除外したら、どれほどのものが残るだろう?

例外のない法則を除外したら、どれほどのものが残るだろう?

 

本来は仮説でしかないものを「有力だ」というだけで

教科書を「答えの書いてある本」のように祭り上げてしまう

学校制度・入試制度が作り上げた幻想にわたしたちは包まれている。

 

それを打破するには、

「わからなさ」へと自分を開き、

そこにどのように向き合うのかが大切になってくる。

 

ここからは、

過去、そして今の自分へ向けた今の気持ち。

 

わからないことをわからないままに受け止める。

最初はその気持ち悪さに耐えられないだろう。

答えを探し求め、偶然見つけたものに縋りつきたくなるだろう。

探し求めるのは一向に構わないが、

見つけたものに執着してはいけない。

 

わからなさに常に自分を開いていれば、

そこにはそのわからなさを埋めてくれる「何か」が

常に入り込んでくる可能性を秘めることになる。

その余白を自分に残しておけるかが大切だ。

 

その余地・余白を、

つまらない情報で埋めてしまうことほど、

勿体ないことはない。

現代の停滞感・閉塞感から抜け出せる唯一とも言える方法は、

「わからなさ」に自分を開き続けられるかということなんだと今は思う。

*1:鷲田清一(2016)『素手のふるまい』,朝日新聞出版,p.98

*2:『同書』、p.114

*3:『同書』、p.107