徒然花

生きる意味を求めて

「豊かな言葉」と「貧しい言葉」

前回の記事の最後で、

 

体感覚を伴っているからこそ、

「穴を埋める」という言葉が、

「その人の言葉になる」ということだと思う。

「穴を埋める土木作業」から、「言葉の持つ力」を考える - 徒然花

 

と書いた。

これを

もう少し広げて考えてみたい。

 

以前のわたしが

「穴を埋める」

という言葉を聞いたときに、

想像することは、

 

・シャベルやスコップを使って土を穴に入れ、その穴をいっぱいにする

 

くらいにしか思っていなかった。

しかし、

前回の記事にも書いたが、

現実はそんな骸骨みたいに痩せているものではなかった。

 

今のわたしの

「穴を埋める」という言葉の周りには、

 

・シャベルとスコップが必要だ

・自然に大きな穴が空くことがあるのか!!!

・小川から石を拾ってくる

・その石は、砂、砂利、石と大きさ別に用意が必要

・そっか、砂と砂利と石を区別する言葉が日本語にあるのはその為か!!!

・小川の水がきもちいい

・あ、石をどかしたら、サワガニ発見!

・穴の底は頑丈かな? 粘土層かな?

・土はどこから持ってくるのかな?

・土を運ぶのしんどい……

・あー、水も必要だ(これも運んでこないきゃ……)

・重いもので均(なら)す必要があるなぁ

・う……腰に来る……

 

というものがある。

わたしの中の「穴を埋める」という言葉は、

かなり豊かな、ふっくらした言葉になったのだ。

 

この体験をする前の、

ガリガリの「穴を埋める」しか知らない状態では

知ったつもりになっているだけで、

穴が自然に空くという驚きや、

石をどけたときのサワガニや、

小川から石を拾うときの水の気持ちよさは

絶対に見えてこなかったことだ。

 

今までは

「穴を埋める」という言葉が

スタティック(静的)なものだったが、

これが、他の現象との関連を持つ

ダイナミック(動的)な言葉に変わった。

 

もう少し言えば、

有機的(オーガニック)な繋がりを、

「穴を埋める」という言葉が持ったのだ。

 

 

 

ここまで書いて思ったのが、

どんな言葉を、

わたしの中で豊かにしたいか、

だった。

 

例えば

「穴を埋める」という言葉ですら、

こんな豊かな奥行きを持っている。

ましてこの世界をや、である。

 

知っていると思い込んでいるだけで、

この《世界》は豊かな広がりと深みを持っているんじゃないか。

そう予感するようになった。

 

今日、

録画しておいたNHKスペシャ

「終わらない人 宮﨑駿」を見た。

 

そこで駿さんが、

CGクリエイターたちとしていた

あるやりとりが印象的だった。

 

CGクリエイターたちは、

駿さんから絵コンテ(映画の設計図)を受け取ると、

「作り出したら早そうな気がする」

と言って、制作を始めた。

彼らの中では、ある程度の構想が見えたのだろう。

 

しかし、

実際に最初のカットのCGを作り、

駿さんに見せに行くと、

なかなかOKが出ない。

 

作っていたストーリーの第1幕は、

卵から主人公の虫が孵化するところから始まる。

孵化した主人公が辺りをキョロキョロ見回すシーンなのだが、

出来上がったCGを見て駿さんは

 

「ちょっとね、振り向き方が大人になってる

 こんな“キッ”と向かない。

 まだそこまで機敏じゃないんですよ、

 生まれたばかりだから。

 

 基本的には鈍臭いというか、

 世界が初めてなんで。

 

 (振り向く動作をしながら)こういうのもね

 全部文化ですから」

 

と言葉を放った。

同じシーンを描くのでも、

CGクリエイターたちと駿さんでは、

それぞれが持っている

《世界》を認識するためのアンテナの感度が違った。

 

CGクリエイターの方たちを

引き合いに出して申し訳ないのと、

これは自戒を込めて言うのだが、

《世界》の認識の仕方が「雑」なのだ。

 

CGクリエイターたちにとっては、

振り向くというのは、

ある程度イメージ化されたものがある。

驚くときはこう、

怖がっているときはこう、

人に呼ばれたときはこう、

みたいな。

 

しかし、

駿さんの頭の中では、

それらのイメージは更に細かく、

よりリアリティを持っている。

 

それは、

体験と知識から生み出された、

より精緻なイメージ。

 

自分のことに置き換えれば、

つまり、

「穴を掘る」「穴を埋める」というのを、

ボタン1つでできると思って生きてきたわたしと、

野山を駆けずり回って、

そこを遊び場にして生きてきた人とでは、

《世界》の見え方が違うのは当然だ。

 

今回出演されていた

CGクリエイターの方々は、

今後CGの技術を磨くのは前提として、

 

更に、

きっとここから、

赤ちゃんというものに、

もっと真剣に、繊細に、

向き合っていくようになるだろうし、

もっと言えば、

人間というものに

注意深く向き合っていくようになるだろう。

 

彼らの場合は、

CGというものを通して、

経験を積んでいくことになるだろう。

 

では、わたしは?

 

わたしは一体、

何を通して経験を積んでいくようになるのだろう。

いや、

何を通して経験を積みたいのだろうか?

と言った方がいいか。

 

ドキュメンタリーの中で、

こんなインタビューがあった。

 

駿「30代とか40代の沸き立つような

  気持ちなんて持ちようがないのよ。

  違うと思うよ、全然」

 

イ「そうなると、

  今宮崎さんを動かすものは

  何になるんですか?」

 

駿「何もしないってつまんないからじゃない?(笑)

  結局そういうことだと思うよ。

  それは別にニヒリスティックに言ってるんじゃないんだよ。

  だから、老監督と言われる人たちはみんなそうですよ。

  やっぱ映画作っているのが一番面白いんだよ」

 

駿さんは、

絵を描かずにはいられない。

それは、何もしないのはつまんないからだし、

絵を描いているのは、

なんだかんだ言って面白いから。

 

駿さんは今までの人生を通じて、

「絵を描く」

「映画を作る」

という言葉を豊かにしてきた。

 

そこで、

わたしが

この記事の真ん中くらいで書いた

 

どんな言葉を、

わたしの中で豊かにしたいか、

 

という問いが生まれた。

 

「文章を書く」

「絵を描く」

「人に教える」

「哲学」etc.

 

と、こうやって言葉を探していき、

どんな言葉を自分の経験として

膨らませていきたいのか。

 

これも経験を通して、

一つ一つ、わたしの好奇心を取り戻していきたい。