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徒然花

生きる意味を求めて

宇宙は真空をきらう

昨日、

「なんかワクワクするもの」に

参加をすることで、

「あたりまえ」から脱却し、

《世界》への手触りを取り戻すことができる、

という記事を書きました。

 

しかし、

わたしたちは

学校教育に始まり、

そのまま仕事についた場合は

特にそうだと思うが、

「合理的」な考え方が、

頭にこびりついている。

 

この場合の「合理的」とは、

辞書の意味に従えば

 

「むだなく能率的であるさま」(大辞泉

 

となる。

 

しかし、

わたしたちは、

「なんかワクワクするもの」に

これから向かおうとするわけだ。

 

ここで

何を「むだ」と捉えるのかが、

大きな分かれ道になってくる。

 

ちょっとこの動画を見てほしい。(11分とちょっと)

www.youtube.com

 

最後に稲葉さん(インタビュアーの方)が、

情報が多くなっている、という文脈で

「最短でいける可能性もあるじゃない」と言う。

 

それにイチローは即答で

「無理だと思います」と一言。

 

情報がたくさんあることで、

分かったような気持ちになる。

 

しかし、

その情報の持つ信憑性、裏付けは、

いかほどのものなのか、というところまでは、

あまり気にされないのが現状だ。

 

結局、

人間が考えられる幅には限界があり、

その限界で導き出した「むだ」が、

本当に「むだ」なのかなんて、誰にも分からない。

まさに、神のみぞ知る、の領域である。

 

しかし、

わたしたちは学校教育で、

合理的な考え方を教えられてきた。

 

それを踏まえた上で、

「なんかワクワクするもの」に向き合うには

「ある考え方」が求められる。

その「ある考え方」とは、

わからないものをわからないままに

抱え込んでいられる奥行き、なのだ。

 

再度、

鷲田清一さんの『素手のふるまい』に立ち返ってみたい。

 

このように、

政治的な判断においても、

看護・介護 の現場でも、

芸術制作の過程でも、

 

見えていないこと、

わからないことがそのコアにあって、

その見えていないこと、

わからないことに、

わからないままいかに正確に対処するか

ということが問題なのである。

 

そういう思考と感覚の

はたらかせ方をしなければならないのが

わたしたちのリアルな社会であるのに、

人々はそれとは逆方向に殺到し、

わかりやすい観念、

わかりやすい説明を求める。

 

一筋縄ではいかないもの、

世界が見えないものに取り囲まれて、

苛立ちや焦り、不満や違和感で息が詰まりそうになると、

その鬱(ふさ)ぎを突破するために、

みずからが置かれている状況を

わかりやすい論理にくるんでしまおうとする。

 

その論理に立てこもろうとする。

わかりやすい二項対立、

それも一方の肯定が

他方の否定をしか意味しない

二者択一というわかりやすい物語に飛びつき、

 

それにがんじがらめになって、

わからないことに

わからないまま正確に対処するという

息継ぎできない潜水のような

思考過程に耐えられないでいる。

(前掲 p.107)

 

また、

「わからなさ」をそのままにしておくことは、

「イメージの通り道」をじぶんの身体のうちに設けることだと

この本で紹介されている。 

 

ここで言う「イメージ」は、

本の中では〈原−物語〉と説明していたが、

誤解を恐れず、もう少し平たい言葉を使えば、

神や摂理、天、ハイアーセルフといったような

言葉で説明されるようなものだとわたしは解釈した。

 

ようするに、

本書の引用をすれば、

自分の存在が、〈筒〉〈器〉となること。

もう少し言えば、

媒体(media=巫女、つまりは何かが憑く器)となることである。

 

それを本書では、

こんなふうに説明していた。

 

それはおのれの身体を空にするためにあった。

みずからの体内を減圧し、

真空にして、

「イメージ」をそこへと引きずり込むことにあった。

(前掲 p.110)

 

こんな言葉を聞いたことがあるだろうか。

 

「宇宙は真空をきらう」

 

これは言葉通りの意味で、

SF映画などを見ていても分かるように、

宇宙船などに穴が空くと、

その穴から真空の宇宙空間に空気や人が

吸い出されていってしまうという現象を表した言葉だ。

 

要するに、

真空の空間に、

空気や物体を入れて、

真空ではない状態にさせようとするはたらきがある、

ということだ。

 

ラッシュアワー、

駅にずらーっと並ぶ人が、

比較的空いている電車が

プラットフォームに入ってきたときにとる行動を

想像してもらえばいいと思う。

 

扉が開いた瞬間、

我先に空席へ足が向くはずだ。

 

あの空席が、

ちょうど真空だと思えばいい。

電車の空席は、わずか数秒にして埋まる。

 

この法則は、

人生にも当てはまるのだと言う。

 

実は、

わたしはこの法則を、

先日目の当たりにした。

 

わたしは仕事を辞めてから、

いくつかの食事会に誘われた。

 

それらの食事会の席で、

仕事を辞めた後に

家賃や生活費を稼ぐあてがないこと、

時間が有り余っていることを伝えると、

 

「うちに空き家あるよ」

「うち、今ちょうど人手ほしいと思ってたんだよ。働く?」

「英語で名刺とかチラシとかを作ってほしい」

「ちょうど一人、人数が足りなくて。君、来る?」

 

と、

あれよあれよと言う間に、

選択肢が増えていった。

 

「わからなさ」をそのままにすること。

これは孫引きになるが、

本書には次のような書いてある。

 

ボランタリー経済の誕生――自立する経済とコミュニティ』(実業之日本社、1998年)のなかで

松岡正剛下河辺淳とともに

記している言葉でいえば、

 

この「わけのわからなさ」によってこそ、

「他者からの力が流れ込んでくるのに

“ふさわしい場所を空けておく”こと」

が可能になる

 

そう、「わからなさ」こそ、

そこから新しいつながりが生成する

「空き」であり、

「余白」であるというのである。

(前掲 p.218)

 

わたしという人間が、

仕事を辞め、アルバイトもせず、

空っぽの状態にあることによって、

 

そのことが

様々な人とのつながりを可能とした。

 

わたしが、

貯金が減るのを恐れ、

アルバイトでも始めていたら、

それこそ、こういうつながりはなかっただろう。

 

アルバイトでお金を稼ぐことは、

お金がなくなるという不安を解消する「ために」、

という目的を持った行動となってしまうからだ。

 

それは、

「わからなさ」を保持した行動とは言えない。

それこそ、合理的な考え方であり、

「むだ」を排してしまう考え方だ。

 

その「むだ」、

言いかえれば「真空」「余白」「空き」にこそ、

新しい可能性が開かれている。

 

「わからなさ」に抗うのではなく

「わからなさ」へとじぶんを開く

(前掲 p.114)

 

 

今後、

自分がどのように変化していくのか、

とても楽しみである。