徒然花

生きる意味を求めて

「なんかワクワクするもの」を通して「やってあたりまえ」から脱却する

前の記事(「《世界》への手触り」を取り戻す方法→鷲田清一『素手のふるまい』)で、

「《世界》への手触り」

を取り戻すための事例を紹介した。

 

今回は、

その事例から導き出される

理屈の部分を書いてみたい。

 

なぜ、

「なんかワクワクするもの」に参加すると、

《世界》への手触りが戻るのか。

 

今回も、

鷲田清一さんの著書

『素手のふるまい』を引用しながら

見ていきたいと思う。

 

まずは、

前回の書いた内容を、

簡単にまとめた文章から見ていきたい。

 

ホワイトキューブ

壁や床に展示された「作品」を

遠慮ぎみに「鑑賞」するだけの

アートの現場にあきたらなくなっていたアーティストと、

 

なとなく釈然とせずに

塞いだままの日常を送っていた

十代、二十代の人たちとが、

何を作るのかもさだかでないまま、

 

「なんかワクワクするもの」

 

という合い言葉だけで、

延々と「協働」する。

 

それぞれがそれぞれに

イメージを膨らませ、

それらの異なるイメージをたがいに調整しながら、

最後はこれ以外にはないという

一つのところへもってゆく……。

そうした活動がここにはあった。

 

鷲田清一(2016)『素手のふるまい―アートがさぐる〈未知の社会性〉』、朝日新聞出版 pp.28-29

 

そして、

イベントの後の打ち上げの場で、

「じぶんはここでは作家ではなく、一人のスタッフでした」

「正しいと思うことって一人ひとり違うんですね」

という2つの言葉に筆者は出会った。

 

まず、

一つ目の言葉に出会うには、

こういう背景が存在する。

 

アートはあらかじめ正確な青写真があって、

それに沿って作品をつくるというやり方をしない。

 

アーティスト自身にも、

じぶんがやろうとしていること、

つくろうとしているものが、

あらかじめ見えているわけではない。

 

これは、

あらかじめ未来に

明確な目標や意義を設定したうえで

そのために何かをするという、

そういういまの社会であたりまえの事の進め方とは

違う活動の仕方である。

(前掲 p.29)

 

学校だったら、

「いい成績をとる」

「部活動で記録を残す」

「入試に合格する」

 

会社だったら、

「売上を伸ばす」

「コストを削減する」

 

以上のような、

明確な目標があり、

 

「いい成績をとるために、勉強する」

「売上を伸ばすために、新規顧客を獲得する」

 

と、

今の日本社会では、

その目標、目的を達成する

「ために」という言葉が使われる。

 

しかし、

今回のプロジェクトは

「なんかワクワクするもの」という

漠然としたコンセプトだけが

その指標となっていた。

 

つまり、

目指す具体的なゴールが

見えていない状態でのスタートだったのだ。

 

今までの学校や会社のあり方を、

筆者はこう書いている。

 

おもえば、

仕事での場でも学校でも家事においても

「やってあたりまえ」とされることで満ちている。

 

思いを込めたふるまいが

「やってあたりまえ」とされることほど

挫けるものはない。

 

このプロジェクトに

参加した人たちはきっと

「やってあたりまえ」ではない経験が

ここではできるという

予感に震えたのかもしれない。

 

そしてそれが結果として、

さまざまな発見に

つながることになった。

 

見ず知らずの人たちのあいだで

もみくちゃになりながら、

じぶんたちで創る

じぶんたちのことは

じぶんたちで決める

 

そんな練習を

そうとは気づかずにしていたのだ。

(前掲 p.31)

 

わたしは今、

英会話のレッスンを受けている。

 

それは、

海外に行くために、だ。

 

しかし、

この「ために」は、

「いい成績」や「売り上げ」とは無縁の、

自分で決めたこと、に他ならない。

 

以前であれば、

わたしは塾講師として職に就き、

英語の勉強をするのは、それこそ

 

「あたりまえ」

 

とされる環境に身を置いていた。

しかし今、

わたしに英語を強制する人は特に誰もいない。

 

しかしながら、

わたしは今、

英会話のレッスンを受けている。

 

それは、

この文章に書かれているように、

見ず知らずの人たちの中に飛び込み、

そこで必要とされたことを、

自分で選んでいるだけなのだ。

 

「あたりまえ」とされることで

いわば飽和状態になっている

この社会の〈外〉へと出てゆく

可能性をその隙間に探っている(前掲 p.32)

 

これが、

今のわたしの姿であり、

この「あたりまえ」という身体の錆を、

一つ一つ削ぎ落としていきたいと思うのだ。

 

わたしの、

ひいては一人ひとりの行動に、

「やってあたりまえ」というものはない。

 

ペン一本にしたって、

それを企画した人がいて、

デザインした人がいて、

部品を製造する人がいて、

インクを掘り出す人がいて、

インクを買入交渉する人がいて、

部品や材料を組み立てる人がいて、

部品や商品を運搬する人がいて、

販売する人がいて、

ようやくわたしの手に渡ってくる。

 

今の日本では、

オフィスにペンがあることは

「あたりまえ」のことであり、

もはやそれは日常の風景になっている。

 

会社支給のペンが書きにくくて文句を言う人はいても、

ペンがそこにあることに感謝をする人はなかなかいない。

 

わたしたちに、

今必要なのは、

「あたりまえ」から脱却することだ。

 

なんかよく分からないけど、

ワクワクするものに参加することによって、

 

「あたりまえ」がない、

自分たちで考え、

自分たちで決め、

自分たちでつくる場に居合わせることができる。

 

そして、

そこからつかみとった

「《世界》への手触り」から、

生きていることが「あたりまえ」ではない、

生きている実感を伴った人生を

歩むことができるんだと思う。