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徒然花

生きる意味を求めて

今の日本で自分らしく生きたいなら、「どうせ死ぬなら◯◯したい」で考える

安心安全な社会が

わたしにもたらしたものは?

 

この日本という国は、

世界でも類を見ないほど、

安全なのだと聞く。

 

飢餓、流行病、

爆弾が降ってくる、

突然強盗が家に押しかけてくる、

 

そういう可能性が、

今、起こるかと問われれば、

限りなくゼロに等しい。

 

生きるに申し分ない、今の日本。

 

しかし、

それにとどまらず、日本では、

食品には消費期限がつけられ、

どこに行ってもアルコール消毒液が置かれ、

山道には落ちないための柵が設けられている。

 

これらは全て、

安全を追求した結果だ。

今、過剰な安全がこの国を覆っている。

(それらが、

クレームを出さないようにするための、

責任逃れの手段であることは

今は脇に置いておく)

 

それらの恩恵を受けて、

わたしは、命の危険からは、

遠いところに位置している。

(これに関しても、

実は徐々に食や薬など、

様々な面から健康は蝕まれている

という意見は、今は置いておく)

 

しかし、

安心安全を手に入れた結果、

わたしが失ったものがある。

それは、「死」を意識することだ。

 

人間はいずれ死ぬ。

それは、知識として当たり前すぎて、

また、タブーとして語られていない点だ。

 

この「死」を意識しなくなったことは、

「人が自分らしい生活を送らない社会」と

密接に関わっている。

 

 

金持ちにも貧乏人にも、

等しく与えられているのは「時間」だ、

と聞いたことがある。

 

この人によれば、

命とは時間のことだ。

 

つまり、

生まれた瞬間を始まりと捉え、

死ぬ瞬間を終わりと捉え、

その間の時間が、

限られた命の時間だということらしい。

 

限られた

終わりがある

有限の

 

わたしは安心安全を手に入れたときから、

そういう終わりを意識した生活からは遠かった。

 

「死」の意識から遠のくとどうなるか?

生き方に張りがなくなり、

なんとなーく時間が過ぎる。

 

なんとなーくというのは、

仕事や家事をがんばっている場合も含む。

ここで言う「なんとなく」というのは、

今日と同じ明日が、

(何の根拠もないが)続くと信じている感覚のことだ。

 

今日と同じ明日が来ると思うと、

人は日々の忙しさにかまけて、

自分の生を意識しなくなる。

 

 自分の生を意識しないと、

更に言えば、今日と同じ明日が来ると思っていると、

「どんな人生が自分らしい人生だろうか」

という問いは生まれてこない。

 

この種の問いは、

一瞬でも終わりを意識しないと出てこない。

なぜなら、

終わりもなければ、始まりもない、

それはつまり、今が永遠に続くことを意味しているからだ。

 

「終わりありきの「今」とは、いかにあるべきか」

この言い方が分かりにくければ、

「どうせ死ぬなら、どういう人生にしたいか」

という言葉で理解してくれればいい。

 

「どうせ死ぬなら……」

安全安心のこの国では、

そのような発想は生まれて来にくい。

なぜなら、先程書いたように

「死」を意識しないからだ。

 

勿論、飢餓がない、

爆弾が降ってこないという、

その種の安心安全は、

生き方の問いを生み出す基盤となるので

絶対的に必要な要素だ。

 

餓死寸前の人に

「人生とはいかにあるべきか」

という問いは意味をなさない。

 

しかし、

過剰に安心安全を求めては、

道を踏み外すことになる。

 

それらを分かった上で、

自分の選択を見つめると、

見えて来るものがある。

 

それは、

「死」を意識した選択は、自分本来の生き方に近くなる

ということだ。

 

なぜなら、

安心を選択基準にした選択は、

どこかに保険をかけており、

あくまで「安心するため」の選択になり、

 

「死」を選択基準にした選択は、

「この人生を生き切る」ための選択になるからだ。

 

この

「どうせ死ぬんなら、◯◯はやっておきたい」

という考え方が、

自分の人生を望むものに変えてくれる。

 

 

 

わたしは今、

この選択を取り入れ、

他人の人生から、

自分の人生に切り替わる

結節点にいるのを感じている。

 

今まで、

自分の人生に

意欲的に関わってこなかった分、

これからわたしの人生が

どのようになっていくのか楽しみだ。