徒然花

生きる意味を求めて

「正しさ」が生み出す負の側面

前回の記事(「全能感」と「プライド」 - 徒然花)は、

「全能感」と「プライド」のからまりが、

わたしを身動きとれない状態にしてしまっていて、

 

そして、

その解決策は「20%で出す」という

経験の積み重ねだと書いた。

 

せっかく「全能感」について書いたので、

もう少しこれについて、

思いついたままに書いていきたい。

 

 

 

そもそも、

なんで「全能感」と「プライド」を

こじらせることになるのか、

という背景を書いてみたい。

 

これは、

「できないことが怖い」

ことが大きな原因だと考えている。

 

なぜ、

「できないことが怖」くなるのか。

これは、各個人の体験に深く結びついている。

 

わたしの場合は、

(と言っても多くの人が当てはまると思うが)

何かができないと

母親から怒られた体験と結びついている。

 

例えば、

おもちゃを散らかしっぱなしにした場合、

決まって「なんでできないの!」と怒られた。

 

こういう体験の積み重ねが、

「できないこと=悪いこと」

もしくは

「できないこと=自分が悪い」

というルールを生み出した。

 

最初は

「片付けることができないのは悪いこと」

と具体的だったのが、

 

「早く食べることができないのは悪いこと」

「宿題を期限内にできないのは悪いこと」

と、怒られながら、

できないことが少しずつたまっていく。

 

たまると、

抽象化されて「できない」だけが取り出され、

「できない」=「悪いこと」ができあがる。

 

そうすると、

萎縮しながら生活を送るようになるのだが、

縮んだものは膨らむのが世の常で、

バネは縮んだら、伸びる。

 

健康的に生活を送っている人は、

幼児期の反抗期と、

青年期の反抗期を経て、

その萎縮をある程度解消することができる。

それがバネの「伸び」の部分。

 

しかし、

反抗期が中途半端だったり、

何らかの理由で反抗期がない場合、

その萎縮は続いたままになる。

 

それは、

その人の中に澱のようにたまり、

様々な形で

その人の人生に吹き出物のように姿を現す。

 

例えば、

「自信のなさ」

 

「できない」が根底にあるので、

何においても「自信がない」。

草食系男子が増えていると言われるが、

一つの理由はここにある。

 

例えば、

「受け身」

 

ゆとり世代は積極性に欠けるとは、

よく聞く言葉であり、

わたしも極々一般的なゆとり世代の一人。

 

「できない」が根底にあったら、

「できない」わけだから、

手を出したくなくなる。

場所が会社なら、指示を待ってしまう。

 

そんなようなしこりを内に宿し、

心の準備が整わないうちに、

社会に放り出されるわけだから、

3年以内に辛くなって辞める人が多いっていうのは、

論理的な帰結に思える。

 

 

 

でも、

人には

「自信のなさ」や「受け身」という言葉からは、

ちょっと想像しにくいことも、

ここには含まれている。

 

それは、

「支配的」であることだ。

これが萎縮し続けた人の「伸び」の部分。

 

「自信のなさ」や「受け身」が生み出すものは、

内側の世界の充実だ。

要するにプライベートの充実。

 

ここで言うプライベートは、

私生活というよりかは、

「自分の世界(観)」と言った方がいいかもしれない。

 

自分の内側には、

完全無欠の世界が広がっている。

 

社交的でない人を

「オタク」と蔑んだ言い方ができるのは、

オタクは自分の世界が充実していて、

そこから出てこない人だという認識が一般にあるからだ。

 

自分の世界に浸っている間は、

「できない」ことを見なくて済む。

 

自分の世界は

自分が支配していられる

つまり、

自分にとって都合の良い

完璧な領域だからだ。

 

だから

自信のない人にとって

自分の世界とは、

自分が自分でいられる、

いわゆる絶対防衛ライン。

 

これを侵されたとき、

極端に出ると

キレたり、自殺したりする。

 

自分が支配していられる領域があると、

その人は安定する。

逆に、支配していられないと、

不安定になる。

 

支配に関しては、

外側に向くと、

権力欲や独占欲となって、

会社・組織なら『白い巨塔』や『半沢直樹』となり(←これ、なんて表現していいか分かんない笑)、

恋愛ならDVやストーカーになる。

国家間なら戦争。

 

わたしたちは、

多かれ少なかれ、

この「支配欲」のようなものと、

折り合いをつけていく必要がある。

 

 

 

「できないこと=悪いこと」は、

「自信のなさ」「受け身」「支配(コントロール)」などの

現象を引き起こしている。

 

では、

この「できないこと=悪いこと」は

どこから出てきたのか?

 

これは、

「正しさ」というものの見方から出てきている。

 

「正しさ」で判断すると、

問題がややこしくなってくる。

 

言い換えれば

「できる=正しい」、

「できない=間違い」となる。

 

後は簡単なことだが、

自転車に乗れるようになるには、

「乗れない(できない)」を一度通過しないといけない。

 

しかし、

そこに「できない=間違い」が入ると、

まじめな人ほど、

「間違えることはいけないこと」と考えるので、

自転車に乗れなくなるという現象がおきる。

 

これが、

前回の記事で書いた

全能感とプライドを
こじらせている人は、
「質」にこだわる傾向にあるが(←自分のこと)、
そういう人は圧倒的に「量」が足りていないことが多い。

 という点につながってくる。

 

わたしは、

この正しさに縛られている、

ということになる。

 

この正しさは、

親や学校の先生から

連綿と受け継がれている考え方だ。

 

この考え方が機能していた時代は確かにあった。

しかし、現代の日本には、

そのときの「正しさ」を基準とした考え方は

もう古くなってしまった。

 

それは

大人になっても

子供サイズの服を着ているようなもので、

さすがにそのままでいるのは窮屈になってきている。

 

これは、

イェフダ・アミハイという人の

詩の一部だ。

 

わたしたちが正しい場所に

花はぜったい咲かない

春になっても。

 

わたしたちが正しい場所は

踏みかためられて かたい

内庭みたいに。

「わたしたちが正しい場所」より

 

正しさは強力であるがゆえに、

弱さを排斥してしまう。

 

これからの時代には、

この「弱さ」がキーワードの一つになっていく。

 

「弱さ」については、

まだわたしの中でかたまっていないので、

いつか書こうと思うが、

 

とにかくこの記事では、

「正しさ」が生み出すものについて書いた。

 

これにどう接したらよいのか、

ということも書きたいのだが、

記事が長くなってきたので、

今日はこの辺で。

「全能感」と「プライド」

全能感という言葉がある。

「自分は何でもできる!」と思う気持ちのことだ。

 

この全能感は、

プライドとくっつくと、

ちょっと厄介なものになる。

その話を少ししてみたい。

 

 

わたしは今、

ある仕事のようなものを

 引き受けているのだが、

一向に手が進まない。

 

そこで

ある人から、

こんなふうに言われた。

 

60点や70点の仕事をするんじゃなくて、

とりあえず、20点くらいでいいから、

出してから考えな。

 

ここから分かることは、

非常にシンプルで、

わたしは、高得点を狙うがために、

稚拙なものを出してはいけない、と思っていた。

 

しかも、

それは崇高な理念によるものではなく、

単にできなさすぎて、

恥ずかしくて出せない、

というものだった。

 

頼まれている作業は、

自分が全く手を出したことのない分野で、

作っていて自分でも恥ずかしくなるくらい

つたないものしかできていなかった。

 

だから、

なかなか手が進まないし、

取り組む時間も、

日に日に減っていった。

 

実はこの「取り組む時間が減る」という行動は、

プライドと密接にくっついた

「全能感」に由来していた。

 

全能感は、

「わたしは何でもできる」という思い。

そしてわたしの中には全能感がある。

 

ここで困ったことには、

わたしの中には「できないことは悪いこと」

という子供の頃から培った考え方がある。

この2つが組み合わされると厄介なのだ。

 

「できないことは悪いこと」なので、

わたしにとって「できない」ということは

心が痛むことだ。

なぜなら、「何でもできる」筈だからだ。

 

なので、

できるだけ心が痛まないようにしたい。

 

そこで、

小さい頃のわたしは、

傷つかない方法を考えた。

 

それは

「やったらできるけど、今はやらない」

という方法だった。

 

「今やらない」理由というのは

いくらでも思いつく。

・時間がない(忙しい)

・やりたくない

・技術がない

・他にやることがある

・お金がない

・知識がない

等々

 

こうして、

理由を見つけては

先延ばしにすることで、

やらない選択をしていく。

「いつでもできる」から「今はやらない」のだ

 

 

では、

そうやって全能感をこじらせてしまった場合、

どのようにしたら抜け出せるか。

 

残念ながら、

ウルトラCのようなものはない。

 

でも、

一つ一つ、

その全能感とプライドのからまりを

解きほぐしていく方法はある。

 

それが、

最初の方に書いた「20%で出す」である。

 

これには、

2つの効能がある。

 

1つ目は、

「自分の実力を直視する」こと。

 

ついつい、目を背けてしまいがちのことだが、

自分の実力を自分の目で見て確認することだ。

正しい現状認識。

言い換えれば、

「これが今の自分のスタート地点なのだと知る」ことになる。

 

そして、

2つ目は、

20%で出したものが「経験になる」こと。

 

やって初めて経験値を得ることができる。

やらないとゼロだが、

やったらゼロではない。

 

結局、

できるようになるか/ならないかは、

経験の量によるところが大きい。

 

全能感とプライドを

こじらせている人は、

「質」にこだわる傾向にあるが(←自分のこと)、

そういう人は圧倒的に「量」が足りていないことが多い。

 

経験に基いてから、

「質」のことを考えるという順序に

切り替えると、

上手くいくんじゃないかと、

今は考えている。

 

あとは

作業に取りかかれない根本的な原因に、

「自分にはできない」というルールや、

「できないことは悪いこと」というルールを

一緒に持っている場合が多い。

 

これらについては、

回を改めて書こうと思うが、

これらのルールを持っていたとしても、

「20%で出す」は有効だと思うので、

実践していこうと思う。

「豊かな言葉」と「貧しい言葉」

前回の記事の最後で、

 

体感覚を伴っているからこそ、

「穴を埋める」という言葉が、

「その人の言葉になる」ということだと思う。

「穴を埋める土木作業」から、「言葉の持つ力」を考える - 徒然花

 

と書いた。

これを

もう少し広げて考えてみたい。

 

以前のわたしが

「穴を埋める」

という言葉を聞いたときに、

想像することは、

 

・シャベルやスコップを使って土を穴に入れ、その穴をいっぱいにする

 

くらいにしか思っていなかった。

しかし、

前回の記事にも書いたが、

現実はそんな骸骨みたいに痩せているものではなかった。

 

今のわたしの

「穴を埋める」という言葉の周りには、

 

・シャベルとスコップが必要だ

・自然に大きな穴が空くことがあるのか!!!

・小川から石を拾ってくる

・その石は、砂、砂利、石と大きさ別に用意が必要

・そっか、砂と砂利と石を区別する言葉が日本語にあるのはその為か!!!

・小川の水がきもちいい

・あ、石をどかしたら、サワガニ発見!

・穴の底は頑丈かな? 粘土層かな?

・土はどこから持ってくるのかな?

・土を運ぶのしんどい……

・あー、水も必要だ(これも運んでこないきゃ……)

・重いもので均(なら)す必要があるなぁ

・う……腰に来る……

 

というものがある。

わたしの中の「穴を埋める」という言葉は、

かなり豊かな、ふっくらした言葉になったのだ。

 

この体験をする前の、

ガリガリの「穴を埋める」しか知らない状態では

知ったつもりになっているだけで、

穴が自然に空くという驚きや、

石をどけたときのサワガニや、

小川から石を拾うときの水の気持ちよさは

絶対に見えてこなかったことだ。

 

今までは

「穴を埋める」という言葉が

スタティック(静的)なものだったが、

これが、他の現象との関連を持つ

ダイナミック(動的)な言葉に変わった。

 

もう少し言えば、

有機的(オーガニック)な繋がりを、

「穴を埋める」という言葉が持ったのだ。

 

 

 

ここまで書いて思ったのが、

どんな言葉を、

わたしの中で豊かにしたいか、

だった。

 

例えば

「穴を埋める」という言葉ですら、

こんな豊かな奥行きを持っている。

ましてこの世界をや、である。

 

知っていると思い込んでいるだけで、

この《世界》は豊かな広がりと深みを持っているんじゃないか。

そう予感するようになった。

 

今日、

録画しておいたNHKスペシャ

「終わらない人 宮﨑駿」を見た。

 

そこで駿さんが、

CGクリエイターたちとしていた

あるやりとりが印象的だった。

 

CGクリエイターたちは、

駿さんから絵コンテ(映画の設計図)を受け取ると、

「作り出したら早そうな気がする」

と言って、制作を始めた。

彼らの中では、ある程度の構想が見えたのだろう。

 

しかし、

実際に最初のカットのCGを作り、

駿さんに見せに行くと、

なかなかOKが出ない。

 

作っていたストーリーの第1幕は、

卵から主人公の虫が孵化するところから始まる。

孵化した主人公が辺りをキョロキョロ見回すシーンなのだが、

出来上がったCGを見て駿さんは

 

「ちょっとね、振り向き方が大人になってる

 こんな“キッ”と向かない。

 まだそこまで機敏じゃないんですよ、

 生まれたばかりだから。

 

 基本的には鈍臭いというか、

 世界が初めてなんで。

 

 (振り向く動作をしながら)こういうのもね

 全部文化ですから」

 

と言葉を放った。

同じシーンを描くのでも、

CGクリエイターたちと駿さんでは、

それぞれが持っている

《世界》を認識するためのアンテナの感度が違った。

 

CGクリエイターの方たちを

引き合いに出して申し訳ないのと、

これは自戒を込めて言うのだが、

《世界》の認識の仕方が「雑」なのだ。

 

CGクリエイターたちにとっては、

振り向くというのは、

ある程度イメージ化されたものがある。

驚くときはこう、

怖がっているときはこう、

人に呼ばれたときはこう、

みたいな。

 

しかし、

駿さんの頭の中では、

それらのイメージは更に細かく、

よりリアリティを持っている。

 

それは、

体験と知識から生み出された、

より精緻なイメージ。

 

自分のことに置き換えれば、

つまり、

「穴を掘る」「穴を埋める」というのを、

ボタン1つでできると思って生きてきたわたしと、

野山を駆けずり回って、

そこを遊び場にして生きてきた人とでは、

《世界》の見え方が違うのは当然だ。

 

今回出演されていた

CGクリエイターの方々は、

今後CGの技術を磨くのは前提として、

 

更に、

きっとここから、

赤ちゃんというものに、

もっと真剣に、繊細に、

向き合っていくようになるだろうし、

もっと言えば、

人間というものに

注意深く向き合っていくようになるだろう。

 

彼らの場合は、

CGというものを通して、

経験を積んでいくことになるだろう。

 

では、わたしは?

 

わたしは一体、

何を通して経験を積んでいくようになるのだろう。

いや、

何を通して経験を積みたいのだろうか?

と言った方がいいか。

 

ドキュメンタリーの中で、

こんなインタビューがあった。

 

駿「30代とか40代の沸き立つような

  気持ちなんて持ちようがないのよ。

  違うと思うよ、全然」

 

イ「そうなると、

  今宮崎さんを動かすものは

  何になるんですか?」

 

駿「何もしないってつまんないからじゃない?(笑)

  結局そういうことだと思うよ。

  それは別にニヒリスティックに言ってるんじゃないんだよ。

  だから、老監督と言われる人たちはみんなそうですよ。

  やっぱ映画作っているのが一番面白いんだよ」

 

駿さんは、

絵を描かずにはいられない。

それは、何もしないのはつまんないからだし、

絵を描いているのは、

なんだかんだ言って面白いから。

 

駿さんは今までの人生を通じて、

「絵を描く」

「映画を作る」

という言葉を豊かにしてきた。

 

そこで、

わたしが

この記事の真ん中くらいで書いた

 

どんな言葉を、

わたしの中で豊かにしたいか、

 

という問いが生まれた。

 

「文章を書く」

「絵を描く」

「人に教える」

「哲学」etc.

 

と、こうやって言葉を探していき、

どんな言葉を自分の経験として

膨らませていきたいのか。

 

これも経験を通して、

一つ一つ、わたしの好奇心を取り戻していきたい。

「穴を埋める土木作業」から、「言葉の持つ力」を考える

自然農という考え方・手法で

農業をやっている赤目自然農塾にお邪魔した。

 

そこでは、

 

耕さず、

肥料・農薬を用いず、

草や虫を敵としない。

 

というコンセプトで畑を作っている。

 

その畑では、

塾として開放している土地があり、

塾生がその畑を借りて、

作物を育てることもできる。

 

わたしは今回、

そこでの「共同作業」というものに

参加をしてきた。

 

わたしは畑を借りていないので、

その日、丁度人を必要としていた、

穴埋め作業を手伝うことにした。

 

敷地内に、

大人が2人入れるくらいの

大きな穴が地面に空いていた。

 

聞くと、

どうもモグラが地下を掘ったり、

 下を流れる水が地盤をぬかるませたりと、

原因はいくつかあるようだった。

 

とにかく

その穴を埋めるわけだが、

こんな経験をしたことのないわたしは

土をどこかから持ってきて、

その土をかぶせるだけだろう

と思っていた。

 

しかし、

その想像は、

かなりこの世界が

ぼんやりとしか見えていないことを

この後、はっきり知ることとなった。

 

穴埋め作業で最初に行われたのは、

この穴の分析だった。

 

深さはどれくらいで、

露わになった地層はどんなで、

底はそれ以上陥没しないかなど。

 

そして、

土を運んでくる場所も、

掘る必要のある場所を選定し、

水を逃す側溝の土を使うことを

決定してから行動を開始した。

 

ここまでで既に、

わたしの想定からは大きく外れていたので、

わたしは何をすべきなのか分からず、

しばらく立ち尽くしていた。

 

しばらくして、

側溝掘りが始まったが、

これもいくつか手順を必要とした。

また側溝も掘ればいいというものではない。

深く掘りすぎてはダメだし、

曲がっていてもダメ。

 

次に、

敷地内を流れる小川に行き、

砂、砂利、げんこつ大の石、もう少し大きい石、そして水

これらを何往復もして

穴の場所まで運んだ。

 

そして

それらの材料を組み合わせながら、

少しずつ穴を埋めていく。

 

埋めるときも、

途中、丸太を突いて固めながら

作業が進められた。

 

砂利や石が足りなくなって、

追加で運んだりもした。

 

以上のプロセスを何度も繰り返した。

大人6人がかりで2~3時間を要してようやく、

最終的に穴を埋めることができた。

 

 

 

この作業を通して思ったのは、

「穴を埋める」と一口に言っても、

そのプロセスたるや、

生半可なものではないということだった。

 

昔、

どうぶつの森』というゲームで遊んでいた。

そのゲームの中で、

シャベルで穴を掘ってアイテムを掘り出したり、

開けた穴を埋めたりすることがある。

 

その「穴を掘る」「穴を埋める」という作業は、

ボタン1つでできるわけだ。

時間だってかからない。

ボタンを押してから、

せいぜい1秒程度で穴は埋まる。

 

穴を埋めるための土も、

どこからともなくやってくるし、

埋め立てたばかりの場所も、

ぬかるんではいない。

 

思えば、

わたしの世界の認識は、

その程度のものだった(笑)

 

だから、

現実に穴を埋める作業は、

体力的にはしんどかったが、

とても新鮮で面白かった。

 

大きな穴が自然に空くという驚き、

小川に行って石を拾うときに水が冷たいここちよさ、

重い石を運ぶしんどさ、

穴の埋まった達成感、

 

いろんな感情と体験が総合して

「穴を埋める」だった。

ボタンを押すだけでは

決して分からない体感覚を伴った作業。

 

「穴を埋める」という言葉からこぼれ落ちている

様々な発見や感情が、

その体験を豊かにしてくれるし、

 

体感覚を伴っているからこそ、

「穴を埋める」という言葉が、

「その人の言葉になる」ということだと思う。

 

「穴を埋める」というただそれだけの作業が、

《世界》への手触りを取り戻す触媒になりうる。

その可能性を感じた。

 

一つずつ、

その可能性を探っていきたい。

宇宙は真空をきらう

昨日、

「なんかワクワクするもの」に

参加をすることで、

「あたりまえ」から脱却し、

《世界》への手触りを取り戻すことができる、

という記事を書きました。

 

しかし、

わたしたちは

学校教育に始まり、

そのまま仕事についた場合は

特にそうだと思うが、

「合理的」な考え方が、

頭にこびりついている。

 

この場合の「合理的」とは、

辞書の意味に従えば

 

「むだなく能率的であるさま」(大辞泉

 

となる。

 

しかし、

わたしたちは、

「なんかワクワクするもの」に

これから向かおうとするわけだ。

 

ここで

何を「むだ」と捉えるのかが、

大きな分かれ道になってくる。

 

ちょっとこの動画を見てほしい。(11分とちょっと)

www.youtube.com

 

最後に稲葉さん(インタビュアーの方)が、

情報が多くなっている、という文脈で

「最短でいける可能性もあるじゃない」と言う。

 

それにイチローは即答で

「無理だと思います」と一言。

 

情報がたくさんあることで、

分かったような気持ちになる。

 

しかし、

その情報の持つ信憑性、裏付けは、

いかほどのものなのか、というところまでは、

あまり気にされないのが現状だ。

 

結局、

人間が考えられる幅には限界があり、

その限界で導き出した「むだ」が、

本当に「むだ」なのかなんて、誰にも分からない。

まさに、神のみぞ知る、の領域である。

 

しかし、

わたしたちは学校教育で、

合理的な考え方を教えられてきた。

 

それを踏まえた上で、

「なんかワクワクするもの」に向き合うには

「ある考え方」が求められる。

その「ある考え方」とは、

わからないものをわからないままに

抱え込んでいられる奥行き、なのだ。

 

再度、

鷲田清一さんの『素手のふるまい』に立ち返ってみたい。

 

このように、

政治的な判断においても、

看護・介護 の現場でも、

芸術制作の過程でも、

 

見えていないこと、

わからないことがそのコアにあって、

その見えていないこと、

わからないことに、

わからないままいかに正確に対処するか

ということが問題なのである。

 

そういう思考と感覚の

はたらかせ方をしなければならないのが

わたしたちのリアルな社会であるのに、

人々はそれとは逆方向に殺到し、

わかりやすい観念、

わかりやすい説明を求める。

 

一筋縄ではいかないもの、

世界が見えないものに取り囲まれて、

苛立ちや焦り、不満や違和感で息が詰まりそうになると、

その鬱(ふさ)ぎを突破するために、

みずからが置かれている状況を

わかりやすい論理にくるんでしまおうとする。

 

その論理に立てこもろうとする。

わかりやすい二項対立、

それも一方の肯定が

他方の否定をしか意味しない

二者択一というわかりやすい物語に飛びつき、

 

それにがんじがらめになって、

わからないことに

わからないまま正確に対処するという

息継ぎできない潜水のような

思考過程に耐えられないでいる。

(前掲 p.107)

 

また、

「わからなさ」をそのままにしておくことは、

「イメージの通り道」をじぶんの身体のうちに設けることだと

この本で紹介されている。 

 

ここで言う「イメージ」は、

本の中では〈原−物語〉と説明していたが、

誤解を恐れず、もう少し平たい言葉を使えば、

神や摂理、天、ハイアーセルフといったような

言葉で説明されるようなものだとわたしは解釈した。

 

ようするに、

本書の引用をすれば、

自分の存在が、〈筒〉〈器〉となること。

もう少し言えば、

媒体(media=巫女、つまりは何かが憑く器)となることである。

 

それを本書では、

こんなふうに説明していた。

 

それはおのれの身体を空にするためにあった。

みずからの体内を減圧し、

真空にして、

「イメージ」をそこへと引きずり込むことにあった。

(前掲 p.110)

 

こんな言葉を聞いたことがあるだろうか。

 

「宇宙は真空をきらう」

 

これは言葉通りの意味で、

SF映画などを見ていても分かるように、

宇宙船などに穴が空くと、

その穴から真空の宇宙空間に空気や人が

吸い出されていってしまうという現象を表した言葉だ。

 

要するに、

真空の空間に、

空気や物体を入れて、

真空ではない状態にさせようとするはたらきがある、

ということだ。

 

ラッシュアワー、

駅にずらーっと並ぶ人が、

比較的空いている電車が

プラットフォームに入ってきたときにとる行動を

想像してもらえばいいと思う。

 

扉が開いた瞬間、

我先に空席へ足が向くはずだ。

 

あの空席が、

ちょうど真空だと思えばいい。

電車の空席は、わずか数秒にして埋まる。

 

この法則は、

人生にも当てはまるのだと言う。

 

実は、

わたしはこの法則を、

先日目の当たりにした。

 

わたしは仕事を辞めてから、

いくつかの食事会に誘われた。

 

それらの食事会の席で、

仕事を辞めた後に

家賃や生活費を稼ぐあてがないこと、

時間が有り余っていることを伝えると、

 

「うちに空き家あるよ」

「うち、今ちょうど人手ほしいと思ってたんだよ。働く?」

「英語で名刺とかチラシとかを作ってほしい」

「ちょうど一人、人数が足りなくて。君、来る?」

 

と、

あれよあれよと言う間に、

選択肢が増えていった。

 

「わからなさ」をそのままにすること。

これは孫引きになるが、

本書には次のような書いてある。

 

ボランタリー経済の誕生――自立する経済とコミュニティ』(実業之日本社、1998年)のなかで

松岡正剛下河辺淳とともに

記している言葉でいえば、

 

この「わけのわからなさ」によってこそ、

「他者からの力が流れ込んでくるのに

“ふさわしい場所を空けておく”こと」

が可能になる

 

そう、「わからなさ」こそ、

そこから新しいつながりが生成する

「空き」であり、

「余白」であるというのである。

(前掲 p.218)

 

わたしという人間が、

仕事を辞め、アルバイトもせず、

空っぽの状態にあることによって、

 

そのことが

様々な人とのつながりを可能とした。

 

わたしが、

貯金が減るのを恐れ、

アルバイトでも始めていたら、

それこそ、こういうつながりはなかっただろう。

 

アルバイトでお金を稼ぐことは、

お金がなくなるという不安を解消する「ために」、

という目的を持った行動となってしまうからだ。

 

それは、

「わからなさ」を保持した行動とは言えない。

それこそ、合理的な考え方であり、

「むだ」を排してしまう考え方だ。

 

その「むだ」、

言いかえれば「真空」「余白」「空き」にこそ、

新しい可能性が開かれている。

 

「わからなさ」に抗うのではなく

「わからなさ」へとじぶんを開く

(前掲 p.114)

 

 

今後、

自分がどのように変化していくのか、

とても楽しみである。

「なんかワクワクするもの」を通して「やってあたりまえ」から脱却する

前の記事(「《世界》への手触り」を取り戻す方法→鷲田清一『素手のふるまい』)で、

「《世界》への手触り」

を取り戻すための事例を紹介した。

 

今回は、

その事例から導き出される

理屈の部分を書いてみたい。

 

なぜ、

「なんかワクワクするもの」に参加すると、

《世界》への手触りが戻るのか。

 

今回も、

鷲田清一さんの著書

『素手のふるまい』を引用しながら

見ていきたいと思う。

 

まずは、

前回の書いた内容を、

簡単にまとめた文章から見ていきたい。

 

ホワイトキューブ

壁や床に展示された「作品」を

遠慮ぎみに「鑑賞」するだけの

アートの現場にあきたらなくなっていたアーティストと、

 

なとなく釈然とせずに

塞いだままの日常を送っていた

十代、二十代の人たちとが、

何を作るのかもさだかでないまま、

 

「なんかワクワクするもの」

 

という合い言葉だけで、

延々と「協働」する。

 

それぞれがそれぞれに

イメージを膨らませ、

それらの異なるイメージをたがいに調整しながら、

最後はこれ以外にはないという

一つのところへもってゆく……。

そうした活動がここにはあった。

 

鷲田清一(2016)『素手のふるまい―アートがさぐる〈未知の社会性〉』、朝日新聞出版 pp.28-29

 

そして、

イベントの後の打ち上げの場で、

「じぶんはここでは作家ではなく、一人のスタッフでした」

「正しいと思うことって一人ひとり違うんですね」

という2つの言葉に筆者は出会った。

 

まず、

一つ目の言葉に出会うには、

こういう背景が存在する。

 

アートはあらかじめ正確な青写真があって、

それに沿って作品をつくるというやり方をしない。

 

アーティスト自身にも、

じぶんがやろうとしていること、

つくろうとしているものが、

あらかじめ見えているわけではない。

 

これは、

あらかじめ未来に

明確な目標や意義を設定したうえで

そのために何かをするという、

そういういまの社会であたりまえの事の進め方とは

違う活動の仕方である。

(前掲 p.29)

 

学校だったら、

「いい成績をとる」

「部活動で記録を残す」

「入試に合格する」

 

会社だったら、

「売上を伸ばす」

「コストを削減する」

 

以上のような、

明確な目標があり、

 

「いい成績をとるために、勉強する」

「売上を伸ばすために、新規顧客を獲得する」

 

と、

今の日本社会では、

その目標、目的を達成する

「ために」という言葉が使われる。

 

しかし、

今回のプロジェクトは

「なんかワクワクするもの」という

漠然としたコンセプトだけが

その指標となっていた。

 

つまり、

目指す具体的なゴールが

見えていない状態でのスタートだったのだ。

 

今までの学校や会社のあり方を、

筆者はこう書いている。

 

おもえば、

仕事での場でも学校でも家事においても

「やってあたりまえ」とされることで満ちている。

 

思いを込めたふるまいが

「やってあたりまえ」とされることほど

挫けるものはない。

 

このプロジェクトに

参加した人たちはきっと

「やってあたりまえ」ではない経験が

ここではできるという

予感に震えたのかもしれない。

 

そしてそれが結果として、

さまざまな発見に

つながることになった。

 

見ず知らずの人たちのあいだで

もみくちゃになりながら、

じぶんたちで創る

じぶんたちのことは

じぶんたちで決める

 

そんな練習を

そうとは気づかずにしていたのだ。

(前掲 p.31)

 

わたしは今、

英会話のレッスンを受けている。

 

それは、

海外に行くために、だ。

 

しかし、

この「ために」は、

「いい成績」や「売り上げ」とは無縁の、

自分で決めたこと、に他ならない。

 

以前であれば、

わたしは塾講師として職に就き、

英語の勉強をするのは、それこそ

 

「あたりまえ」

 

とされる環境に身を置いていた。

しかし今、

わたしに英語を強制する人は特に誰もいない。

 

しかしながら、

わたしは今、

英会話のレッスンを受けている。

 

それは、

この文章に書かれているように、

見ず知らずの人たちの中に飛び込み、

そこで必要とされたことを、

自分で選んでいるだけなのだ。

 

「あたりまえ」とされることで

いわば飽和状態になっている

この社会の〈外〉へと出てゆく

可能性をその隙間に探っている(前掲 p.32)

 

これが、

今のわたしの姿であり、

この「あたりまえ」という身体の錆を、

一つ一つ削ぎ落としていきたいと思うのだ。

 

わたしの、

ひいては一人ひとりの行動に、

「やってあたりまえ」というものはない。

 

ペン一本にしたって、

それを企画した人がいて、

デザインした人がいて、

部品を製造する人がいて、

インクを掘り出す人がいて、

インクを買入交渉する人がいて、

部品や材料を組み立てる人がいて、

部品や商品を運搬する人がいて、

販売する人がいて、

ようやくわたしの手に渡ってくる。

 

今の日本では、

オフィスにペンがあることは

「あたりまえ」のことであり、

もはやそれは日常の風景になっている。

 

会社支給のペンが書きにくくて文句を言う人はいても、

ペンがそこにあることに感謝をする人はなかなかいない。

 

わたしたちに、

今必要なのは、

「あたりまえ」から脱却することだ。

 

なんかよく分からないけど、

ワクワクするものに参加することによって、

 

「あたりまえ」がない、

自分たちで考え、

自分たちで決め、

自分たちでつくる場に居合わせることができる。

 

そして、

そこからつかみとった

「《世界》への手触り」から、

生きていることが「あたりまえ」ではない、

生きている実感を伴った人生を

歩むことができるんだと思う。

「芸者遊び」と「おもてなし」の向こうにある細やかさ

芸妓さんの芸を見ながらの

お酒の席というのに

生まれて初めて出た。

 

お店、と言っても

自宅を改装してあるのだが、

入り口をくぐるとそこはもう異世界。

 

入り口の傍には

柳の木があり(見返り柳?笑)、

飛び石に白い砂利敷きの通路を通り、

篝火を脇に見ながら玄関へ向かう。

 

中へ入ると、

カウンター席になっており、

最大で6人まで座れる仕様。

 

そのカウンターから向こうは、

最初障子で仕切られ、

それが開けられると檜舞台が姿を現す。

 

白屏風とその両脇に灯籠が2つ、

そしてその前には芸妓さんが座しており、

その方の舞で本日の席が始まった。

 

芸妓さんも去ることながら、

出てくる料理も、

目もあやな盛り付け。

 

しかも、

料理は板前さんを雇っているのではなく、

芸妓さん自身でお作りになるそうだ。

 

 

こんな世界があるのかと

目が飛び出る思いだった。

 

それにしても、

なぜこんなにも

異世界感がするのか不思議だった。

 

「ちょっといい感じのカフェ」とは

全く違う雰囲気を持っている。

 

その雰囲気の源泉は、

恐らく、一つ一つの「細やかさ」であろうと思った。

 

芸妓さんの姿一つとっても、

華やかなお化粧に、

一人ひとりへの行き届いた気配り、

舞や笛の仕込まれた芸、

たおやかな所作、

髪の結い方と帯の締め方で歴が分かるという点や、

またその歴に相応しい衣裳があったり、

来たお客さんを徹底的にもてなす準備がある。

 

他にも、

食事だったら、

仕入れは産地から

出汁のとり方という料理法まで、

一つ一つが考え込まれていた。

そしてそれを盛る器も、

主張しすぎずこだわりが見える。

果ては、コップを置くコースターは手作りで、

お土産でお持ち帰りさせてくれるというおまけつき。

 

数え出したらきりがないし、

わたしが見えていないところにも、

心地よさを生み出す気配りがなされていると思う。

 

このお店の筆頭の芸妓さんも、

「本当に奥が深い世界です。

 わたしも勉強することが本当に多くて」

と仰っていた。

 

 

 

オリンピック招致のプレゼンで、

「おもてなし」という語が取り沙汰されたが、

一流のおもてなしというのを、

日本人であるわたし自身が

もっと知った方がよいと感じた。

 

この世界を見る前と後とでは、

わたしの中のもてなしの基準が

がらりと変わった。

 

いや、正しくは、

変わったというより、

拓(啓)かれた感じだ。

 

「え、そこも!?」

「おっ、ここも!?」という

細やかさを大事にしていきたい。

 

自分の生活の中で、

どこまで取り込むことができるか。

今後の課題だ。