徒然花

生きる意味を求めて

「芸者遊び」と「おもてなし」の向こうにある細やかさ

芸妓さんの芸を見ながらの

お酒の席というのに

生まれて初めて出た。

 

お店、と言っても

自宅を改装してあるのだが、

入り口をくぐるとそこはもう異世界。

 

入り口の傍には

柳の木があり(見返り柳?笑)、

飛び石に白い砂利敷きの通路を通り、

篝火を脇に見ながら玄関へ向かう。

 

中へ入ると、

カウンター席になっており、

最大で6人まで座れる仕様。

 

そのカウンターから向こうは、

最初障子で仕切られ、

それが開けられると檜舞台が姿を現す。

 

白屏風とその両脇に灯籠が2つ、

そしてその前には芸妓さんが座しており、

その方の舞で本日の席が始まった。

 

芸妓さんも去ることながら、

出てくる料理も、

目もあやな盛り付け。

 

しかも、

料理は板前さんを雇っているのではなく、

芸妓さん自身でお作りになるそうだ。

 

 

こんな世界があるのかと

目が飛び出る思いだった。

 

それにしても、

なぜこんなにも

異世界感がするのか不思議だった。

 

「ちょっといい感じのカフェ」とは

全く違う雰囲気を持っている。

 

その雰囲気の源泉は、

恐らく、一つ一つの「細やかさ」であろうと思った。

 

芸妓さんの姿一つとっても、

華やかなお化粧に、

一人ひとりへの行き届いた気配り、

舞や笛の仕込まれた芸、

たおやかな所作、

髪の結い方と帯の締め方で歴が分かるという点や、

またその歴に相応しい衣裳があったり、

来たお客さんを徹底的にもてなす準備がある。

 

他にも、

食事だったら、

仕入れは産地から

出汁のとり方という料理法まで、

一つ一つが考え込まれていた。

そしてそれを盛る器も、

主張しすぎずこだわりが見える。

果ては、コップを置くコースターは手作りで、

お土産でお持ち帰りさせてくれるというおまけつき。

 

数え出したらきりがないし、

わたしが見えていないところにも、

心地よさを生み出す気配りがなされていると思う。

 

このお店の筆頭の芸妓さんも、

「本当に奥が深い世界です。

 わたしも勉強することが本当に多くて」

と仰っていた。

 

 

 

オリンピック招致のプレゼンで、

「おもてなし」という語が取り沙汰されたが、

一流のおもてなしというのを、

日本人であるわたし自身が

もっと知った方がよいと感じた。

 

この世界を見る前と後とでは、

わたしの中のもてなしの基準が

がらりと変わった。

 

いや、正しくは、

変わったというより、

拓(啓)かれた感じだ。

 

「え、そこも!?」

「おっ、ここも!?」という

細やかさを大事にしていきたい。

 

自分の生活の中で、

どこまで取り込むことができるか。

今後の課題だ。

「《世界》への手触り」を取り戻す方法→鷲田清一『素手のふるまい』

《物語》の喪失について、

何度か記事で取り上げたが、

 

今後、我々はどのように

《物語》と向き合っていけばいいのか。

 

いつかの記事に書いたように、

自分自身のコンパスに基づいて、

自分の《物語》を紡いでいく必要があろう。

 

しかし、

「さぁ、自由に紡いで下さい!」

と言われたところで、

全く何もないところからは、

何も生み出せないのが人間だ。

 

何か、

参考になるものが、

やはり必要になろう。

 

そこで、

わたしが今後の人生のモデルに

したいと思っている1冊の本がある。

 

その1冊とは、

鷲田清一さんの『素手のふるまい』

という本だ。

鷲田清一(2016)『素手のふるまいーアートがさぐる【未知の社会性】』、朝日新聞出版

 

この本に登場する考え方は、

次の時代の生き方を

暗示しているように思うのだ。

 

物凄く長くなるが、

大事なところを引用しながら

書いていきたい。

 

その生き方は、

2003年に行われた

湊町アンダーグラウンドプロジェクトという企画に、

著者が一スタッフとしてかかわった話の中に現れている。

 

まず、

このプロジェクトを理解するには、

そのプロジェクトが起こった場所の理解が必要だ。

 

いまは再開発がおおよそ完了したが、

かつて大阪・JR難波駅のすぐそばに、

知ればだれもが度肝を抜くような

巨大な地下空間があった。

 

湊町地区の開発計画のなかで

地下のショッピング・アーケイドとして

構想されながら、

バブルの崩壊とともに

未完のまま封印された、

 

奥行きがおよそ190メートル、

天上の高さは5メートルほど、

総面積が3000平米はあろうかという、

細長いがらんどうの空間である。

(本書 p.23)

 

要するにそこは、

空間だけあり、

後は何もない空っぽで、

しかもないことにされていた。

 

そして、

あるアート・プロデューサーが開発者側から

「広場の整備にアート・ワークを入れて」と依頼された。

 

「なんかワクワクするものを」

を合い言葉に、

何人かのプロデューサーやアーティストと一緒に、

ある事務所に集まっておしゃべりを続けた

 

彼らは、何度かこの空間を探索したのち、

〈光〉のアート・イヴェントをやろうと決めた。

 

会期二週間(2003年9月20日から10月5日まで)

という束の間のイヴェントは、

ほぼ一年にわたるすさまじい人数の

共同作業から生まれた。

 

管理者の同意をとりつけ、

消防法をはじめとする厳しい法律を

クリアするための役所との交渉、

次々と生じる使用上の制限と

度重なるコンセプトの練りなおし、

蛍光灯を撤去予定のビルからもらってくる作業、

取り付け、消火栓の設置、

そして広報、経理、スケジュール調整、事務連絡……。

 

ここに延べ数千人という

ヴォランティアが合流した。

もちろん全員が手弁当である。

 

なかには

一ヵ月休職する人もいた。

 

「なんかわくわくするもの」、

このコンセプトだけでうごめきだした

たがいに見ず知らずの人たちの大きなうねりを、

言い出しっぺの一人でもあったわたしは、

傍から啞然と見守るばかりであった。

(本書 p.24)

 

例えば、

ここに挙がっているような法律は、

著者やプロデューサーも最初から頭にあったわけではなく、

「こういうことをしたい」

という思いを実現するために、

その都度、現れてきた問題なのだと言う。

 

それと並行して作品の制作がなされた。

 

やったことのないことを試みるのだから、

やってゆくなかで問題はだんだん増えてゆくばかり

 

法律的な問題をクリアしようとすると、

この空間でできることにも枠がはまる。

 

空間整備の進行とともに

全体のプロジェクトも作品のプランも

どんどん変化していった

(本書 p.25)

 

このプロジェクトを進めていく中で、

様々な軋轢が生まれたり、

途中から「この人、だれ?」という状況になったり、

地上からは「何やってんのー?」と

興味を持った若者の一部が合流したりと、

どんどん広がりを見せていったようだ。

 

唱歌「めだかの学校」のなかの

「だーれが生徒か先生か」というフレーズ、

それをわたしはこのプロジェクトの渦中で

何度も思い浮かべていた。

 

(中略)

 

だれが制作部門で

だれが支援部門かわからないような

無数の人たちの共同作業

 

ホワイトキューブの壁や床に展示された

「作品」を遠慮ぎみに「鑑賞」するだけの

アートの現場にあきたらなくなった

アーティストとヴォランティアの

共同作業であった。

(本書 p.26)

 

最終的に、

プロジェクトは形を為し、

短い会期のあと、

作品は全て撤去され、

空間自体も

ふたたび封印されたそうだ。

 

そして、

この一連の流れも大事なのであるが、

この後の著者が耳にした言葉も、

かなりの重要度がある。

 

その打ち上げの会で耳にした二つの言葉が、

いまも脳裡にはっきりと映っている。

 

一つは、

廃屋にあった蛍光灯1232本を集めて

光の絨毯を織りなした高橋匡太の言葉。

 

(中略)

 

制作の中心にいた

その高橋のほうは、

制作を終えてわたしにこう、

誇らしげに語ったのだった。

 

「じぶんはここでは作家ではなく、

 一人のスタッフでした」、と。

 

いま一つは、

ヴォランティアとして参加した二十歳ほどの女性の言葉。

 

「正しいと思うことって一人ひとり違うんですね」。

 

「それ、はじめて知ったの?」と

おもわず返しそうになったが、

その控えめの、

しかし思い定めたようなまなざしに

言葉を呑み込んだ。

 

ふつう考えればあたりまえのことを、

彼女はこの果てしない作業のなかで「発見」した、

 

身をもって学んだのだった。

 

(中略)

 

こう考えると、

「教室での学びのほうこそ特殊な学びに過ぎない」

ということにもなりそうだ。

 

「正しいと思うことって一人ひとり違うんですね」

とつぶやいた女性は、

これまでそういう知恵の使い方を

「ライブ感覚」で体験したことが

なかったのかもしれない。

 

「世間知らず」?

 

それでいいではないか、

いやそれはすごいことではないか、

「世間」を知ったのだから、

と感じ入ったのだった。

(本書 pp.27-28)

 

最後のインパクトを

感じて戴けただろうか?

 

幼少期から青年期にかけてをフツーに学校で過ごし、

遊びといえばテレビゲームだったわたし。

 

最後に「正しいと思うことって一人ひとり違うんですね

と言った女性と、わたしの感性はよく似ていると思う。

 

頭ばかりでっかくなって、

生きる希望を見失っていた自分にも、

この世界で楽しく生きる希望が残されていたんだ!!!

そう思わせてくれる文章・事例だった。

 

これが、

「《世界》への手触り」を取り戻す方法の事例だ。

 

この《世界》に触れる。

そしてその感触を確かめる。

 

そうすれば、

少しずつこの《世界》との

関わりを取り戻すことができるのだ。

 

そして、

この「《世界》への手触り」を取り戻すことによって、

生きている実感を取り戻すことができる。

 

その先に、

「やりがい」や「生きがい」、「感謝」といった言葉が

自分を待っていてくれるんだろうと思う。

 

この事例だけでは

理解しにくい場合は、

また機会を改めて、

まとめた記事を掲載したい。

ノリの悪い自分が食い下がるべきポイント

先日、

トライアスリートの方々との飲み会に

参加する機会を得た。

 

皆さんとてもエネルギッシュで、

圧倒されっぱなし。

でも、なんとかついていこうと、

テンションはなるべく高くしようと努めた。

 

 自分以外の人は、

1名を除き、

みんなトライアスリート

 

この飲み会は、

先日ハワイで行われた

アイアンマン世界選手権大会に出場し、

完走を果たした70代の男性のための祝賀会。

 

アイアンマン世界選手権大会は、

水泳3.86km

自転車180.25km

マラソン42.195km

という気の遠くなるようなレース競技。

 

更には、

誰でも出場できるわけではなく、

世界各地で開かれる大会に出場し、

出場権を獲得しなければいけないというようなレース。

 

それに70代の男性が出場し、

且つ完走しているという目の飛び出るような結果。

見た目も、

とても70代とは思えない

肌のハリツヤ。

 

その方は、

飲み会の席では、

割と静かで落ち着いた感じの人だった。

 

しかし、

翌日に行われたレースの打ち合わせの席で、

その静かさの裏に秘められた熱いものを感じることになった。

 

打ち合わせの際に

物静かだった彼のリュックから出てきたのは、

レースに必要な所持品や食事計画だった。

それらは、几帳面に罫線で仕切られ、

全てパソコンで打ち込まれてあった。

 

付け加えておくと、

70代の男性は、

別のアスリートのサポートクルーとして

今回のレースには参加をする。

 

また、

打ち合わせで彼の口から出てくるのは、

今回の走者を全力で応援しようという思いと、

経験に裏打ちされた積極的なアドバイス。

 

飲み会での静かな態度は、

世を忍ぶ仮の姿だということが

よく分かった。

 

打ち合わせを進める方たちは、

どの方も真剣な眼差しをしていた。

 

ここでも、

なるべくその真剣さに

振り落とされないように気をつけた。

 

 

 

打ち合わせを途中で抜けさせて戴き、

わたしは別の集まりに移動。

 

その集まりは、

年齢もほぼ同じ人同士の

ハロウィンパーティ。

 

その場に参加して思ったのは、

いつもと比べて、

喋ったり、ふざけたり、

楽しんだりすることができた、ということ。

 

ふざけながら、

「なんでこんなに動けるんだ?」

と自分で不思議だった。

 

よくよく考えてみれば、

不思議なことでも何でもなくて、

 

前日の飲み会と打ち合わせの席で、

エネルギッシュな人たちに囲まれ、

且つ、自身もテンションを上げることによって、

自分の中のエネルギーが高かったから動けたのだと分かる。

 

今まで、

エネルギーは低く、

なるべく目立たないように生きてきた。

人の目が怖かったからだ。

 

しかし、

エネルギーが高い人と場を共有すると、

自分のエネルギーも上がる。

 

ただ、

最初は居心地が悪く感じる。

元々自分のエネルギーが低いから。

 

それでも、

ここは食い下がるべきポイントのような気がする。

問題は、わたしはどちらの人生を歩みたいか。

 

ならば、

答えは明白で、

その場に自分がいることが許されているならば、

なるべく長くそこにいて、

その場の空気を吸うことが、

今後の人生を左右するように感じる。

 

 

この飲み会に誘って下さった方に感謝したい。

今の日本で自分らしく生きたいなら、「どうせ死ぬなら◯◯したい」で考える

安心安全な社会が

わたしにもたらしたものは?

 

この日本という国は、

世界でも類を見ないほど、

安全なのだと聞く。

 

飢餓、流行病、

爆弾が降ってくる、

突然強盗が家に押しかけてくる、

 

そういう可能性が、

今、起こるかと問われれば、

限りなくゼロに等しい。

 

生きるに申し分ない、今の日本。

 

しかし、

それにとどまらず、日本では、

食品には消費期限がつけられ、

どこに行ってもアルコール消毒液が置かれ、

山道には落ちないための柵が設けられている。

 

これらは全て、

安全を追求した結果だ。

今、過剰な安全がこの国を覆っている。

(それらが、

クレームを出さないようにするための、

責任逃れの手段であることは

今は脇に置いておく)

 

それらの恩恵を受けて、

わたしは、命の危険からは、

遠いところに位置している。

(これに関しても、

実は徐々に食や薬など、

様々な面から健康は蝕まれている

という意見は、今は置いておく)

 

しかし、

安心安全を手に入れた結果、

わたしが失ったものがある。

それは、「死」を意識することだ。

 

人間はいずれ死ぬ。

それは、知識として当たり前すぎて、

また、タブーとして語られていない点だ。

 

この「死」を意識しなくなったことは、

「人が自分らしい生活を送らない社会」と

密接に関わっている。

 

 

金持ちにも貧乏人にも、

等しく与えられているのは「時間」だ、

と聞いたことがある。

 

この人によれば、

命とは時間のことだ。

 

つまり、

生まれた瞬間を始まりと捉え、

死ぬ瞬間を終わりと捉え、

その間の時間が、

限られた命の時間だということらしい。

 

限られた

終わりがある

有限の

 

わたしは安心安全を手に入れたときから、

そういう終わりを意識した生活からは遠かった。

 

「死」の意識から遠のくとどうなるか?

生き方に張りがなくなり、

なんとなーく時間が過ぎる。

 

なんとなーくというのは、

仕事や家事をがんばっている場合も含む。

ここで言う「なんとなく」というのは、

今日と同じ明日が、

(何の根拠もないが)続くと信じている感覚のことだ。

 

今日と同じ明日が来ると思うと、

人は日々の忙しさにかまけて、

自分の生を意識しなくなる。

 

 自分の生を意識しないと、

更に言えば、今日と同じ明日が来ると思っていると、

「どんな人生が自分らしい人生だろうか」

という問いは生まれてこない。

 

この種の問いは、

一瞬でも終わりを意識しないと出てこない。

なぜなら、

終わりもなければ、始まりもない、

それはつまり、今が永遠に続くことを意味しているからだ。

 

「終わりありきの「今」とは、いかにあるべきか」

この言い方が分かりにくければ、

「どうせ死ぬなら、どういう人生にしたいか」

という言葉で理解してくれればいい。

 

「どうせ死ぬなら……」

安全安心のこの国では、

そのような発想は生まれて来にくい。

なぜなら、先程書いたように

「死」を意識しないからだ。

 

勿論、飢餓がない、

爆弾が降ってこないという、

その種の安心安全は、

生き方の問いを生み出す基盤となるので

絶対的に必要な要素だ。

 

餓死寸前の人に

「人生とはいかにあるべきか」

という問いは意味をなさない。

 

しかし、

過剰に安心安全を求めては、

道を踏み外すことになる。

 

それらを分かった上で、

自分の選択を見つめると、

見えて来るものがある。

 

それは、

「死」を意識した選択は、自分本来の生き方に近くなる

ということだ。

 

なぜなら、

安心を選択基準にした選択は、

どこかに保険をかけており、

あくまで「安心するため」の選択になり、

 

「死」を選択基準にした選択は、

「この人生を生き切る」ための選択になるからだ。

 

この

「どうせ死ぬんなら、◯◯はやっておきたい」

という考え方が、

自分の人生を望むものに変えてくれる。

 

 

 

わたしは今、

この選択を取り入れ、

他人の人生から、

自分の人生に切り替わる

結節点にいるのを感じている。

 

今まで、

自分の人生に

意欲的に関わってこなかった分、

これからわたしの人生が

どのようになっていくのか楽しみだ。

自信と弱さ

ある飲み会の席で。

 

一人が、

家族関係の不満を漏らしていた。

 

その場にいた別の一人が、

わたしに話を振ってきた。

「お前はそういう不満とかないの?」

 

あるにはある。

が、上手く表現できない。

口から出てきたのは、

すっごく表面的で抽象的な言葉。

 

すかさず、

質問してきた人は、

「お前は頭いいけど、頭でっかちだな」

と一言。

 

話を上手にまとめられない、

という不得手な部分も影響しているだろうが、

自信がないのが一番大きく影響している。

 

自分のことを話すのは

とても恥ずかしいことに感じる。

 

わたしの好み、

わたしの癖、

わたしの習慣、

わたしの夢、

休みの日の過ごし方、

普段から考えていること。

または、わたしの嫌いなもの、人。

 

話せば、大抵は、

「あ、君はそういう人なんだね」

で済んでしまう話なのだが、

それをついつい隠そうとしてしまう。

 

今まで、

この《世界》と関係を断ち、

逃げてきたツケが回ってきたのだ。

 

まぁでも、

周りの人に恵まれているのか、

自分のことを隠そうとしたからって、

人間関係に支障を来すような人はいない。

 

みんな、自分の弱さを容認してくれる。

いや、実際のところは、

容認というよりかは、

気にしていないだけなのかもしれない。

でも、気にしてないというのは、

別にそれでいいということなのだ。

 

別にそれでいい、というのは、

わたしの場合だったら、

むっつりでいいということだし、

その他もろもろを含め、いいということだ。

 

自分の中には、

そういう弱い自分を許せない自分がいる。

弱い部分が許せないから、

知的に振る舞おうとしたり、

気丈に振る舞おうとしたり、

空気が読めてますよアピールをしたりする。

 

自分に自信がないから、

自分じゃないものになろうとする。

それは疲れるし、

わたしの場合は上手くいかないことが多い(笑)

 

自分のことを喋れないというのは、

もう自分の癖になってしまっているし、

練習してこなかった部分なので、

これから自分のことを喋る練習を、

少しずつさせてもらいたいと思う。

 

その練習が、

自分を取り戻すことに繋がるだろうし、

《世界》への手触りを取り戻すのに、

必要なアクションになってくるだろうと思う。

 

 

 

ちなみに、

この飲み屋でのやりとり、

「お前は頭でっかちだな」と言った人は、

この飲み屋に行ったことすら記憶になかった(笑)

 

必要があれば、

この世界はきちんと、

練習の場を用意してくれるらしい(笑)

ありがたいことだ。

生徒たちが教えてくれたこと

前回の投稿は、

《世界》と自分が分断している、

という内容のものだった。

 

で、最近、

どうにもダメだと思い、

会社を辞めた。

 

個人的には、

ひっそり辞めるつもりだったのだが、

そうは問屋が卸さなかった。

 

前の会社では塾講師をしていた。

だから、生徒に辞めることを告げると、

様々な反応が返ってきた。

 

辞めないでよ、と言ってくれた生徒、

手紙を書いてくれた生徒、

感謝を伝えてくれた生徒、

寂しそうにしている生徒。

 

そして、

そういう反応は生徒だけに

留まらなかった。

後輩からも、似たような反応があった。

プレゼントまでくれた後輩もいた。

 

わたしから見ると、

《世界》とわたしは分断されているが、

生徒から見ると、

生徒にとっての《世界》とわたしは

問題なく繋がっていたのだ。

 

それを、

わたしが耐えられなくなって、

一方的に生徒たちとの関係を

切ることになってしまった。

 

そう思うと、

申し訳なさが湧き上がる。

また、

自分の未熟さを認識する機会にもなった。

 

生徒たちは(後輩も)身を挺して、

わたしに、わたしと《世界》との関わりが、

常に既にそこにあったことを教えてくれた。

 

わたしは、

以上のことを踏まえ、

これからの身の振り方を考える必要がある。

 

まずは、

《世界》への手触りを

回復するところからだ。

 

《世界》との関係が常に既にあったとしても、

認識するためのアンテナがなければ、

やはりそれは見えてこない。

きっと、同じ過ちを繰り返すことになろう。

 

だから、

この回復が急務となる。

そのための方法については、

また別の機会に書くとして、

わたしと同じような症状に苦しむ人には、

恐らく有効に働くこと請け合いだ。

 

そして、

身を挺して、

わたしに関わってくれた生徒たちに、

感謝の意を表したい。

 

いつか、

この《世界》との関わりを取り戻し、

心の底から感謝できるようになったら、

再び、彼、彼女らにお礼を言いたいものだ。

《世界》とわたしの分断

《世界》とわたしの分断

と題したが、

これがわたしの今の実感だ。

その実感を説明してみたい。

 

《世界》とは、

この世のこと。

この地球の上で送る、

時間や空間を指している。

 

それが、

わたしと分断しているのだから、

切れてるわけである。

関係が持てていないのだ。

 

例えば、

食べるもので言ってみたい。

 

わたしは、

食べるものは

正直何でもいいと思っていた。

 

オーガニックな野菜を食べようが、

カップラーメンを食べようが、

お腹に入れば同じ食べ物で、

別段気にも留めていなかった。

 

気に留めていなかったのは、

自分とは関係がないと思っていたわけで、

要するに無関心だったわけだ。

 

無関心だったのは、

周りの環境も影響していた。

 

どういうことかと言えば、

コンビニやスーパーにはお弁当が並び、

マクドナルドやすき家は、

夜遅くまで営業している。

 

お金さえ払えば、

食べるものに困らず、

更には、

「減塩」や「脂肪30%カット」などと

書かれた弁当などを買えば、

健康に気を遣っているような気にさえなれた。

 

もうこれは、

一事が万事で、

着るもの、

見るもの、

聞くもの、

話すもの、

読むもの、

仕事の仕方、

生活サイクル、

日曜日の過ごし方、

人間関係に至るまで、

様々なことに無関心だったのだ。

 

あらゆるものに関心がなく、

関心がないからこそ、

生きていることに

楽しみも面白みもなかった。

《世界》は常に色褪せて見えていたのだ。

 

だからこそ、

生きることにそのものに

無関心になっていき、

自分の塞ぎがちな性格も相まって、

 

遂には、

このブログの最初の投稿に書いた

 

「自分はこの世に存在する価値がない」
「自分には何もできない(何もない)」
「現状が永遠に変わらない」

 

と思うようになった。

これは当然の帰結だった。

 

これは高校生のときには、

既にこんな気持ちに苛まれていた気がする。

 

それより少し前に、

「◯◯しても意味はない」とか

「◯◯なんて、所詮この程度だろう」とか

思うようになってから、

こういう気持ちが出てくるようになったことを、

書きながら思い出した。

 

わたしはプライドが高い分、

何においても「負ける」ということが

許せなかったのだ。

 

負けるのが嫌だったわたしは、

勝負をしないという秘策を思いついた。

 

それは、

勝負をしなければ、

負けもしないという妙案だった。

 

こうして、

あらゆることに対して、

「これはがんばっても意味がない」

「そんなにムキになって何が楽しいの?」

と斜に構えるようになった。

 

思い返せば、

これがわたしの、

《世界》との分断の幕開けだったのだろう。

 

こうして、

あらゆる関係を切っていった先に

わたしを待ち構えていたのは、

虚無感、閉塞感、絶望感、無価値観だった。

 

勿論、

表面上は、

普通の人を装う。

普通を装っている間は、

そういう感情から一時的にでも

逃れることができるからだ。

 

しかし、

普通という仮面は、

つけていると息苦しくなってくる。

 

しばらくすると、

息が切れて、

うつ病みたいな症状になる。

何もやる気が起こらなくなるのだ。

 

しばらくすると治るから、

また仮面をつけてがんばる。

 

そんな矛盾を抱えながら、

今日まで生きてきたのだ。

 

結局のところ、

世界との関わりが非常に薄くなり、

生きていても、

生きている実感がなく、

嬉しいと思えることも何もない、

そんな状態が続いていたから、

死んでもいいなと思うことは日常茶飯だった。

 

ただ、

死ぬ覚悟も勇気もないから、

今もこうして生きてる。

(ただ、死ぬ覚悟をすると、

何かが起こるということは何度かあった)

 

この死ぬ気はないんだけど、

ライトな「死にたい」という気持ちに、

長らく苦しめられてきた。

 

しかし、

今までとは逆のアプローチを辿れば、

この気持ちともおさらばできるんじゃないかと

最近は思っている。

 

その逆のアプローチというのが、

《世界》への手触りを取り戻すこと。

 

今、《世界》とわたしは分断されている。

それを再び関係し直す。

 

そうすれば、

月並みな表現になるが、

元気になるんだと思う。

 

わたしは、

ここに、今、

一条の光を見ている。