徒然花

生きる意味を求めて

「わからなさ」へと自分を開くことで、閉塞感を脱することができる

突然だが、

わたしの金銭的な側面を報告すると、

以下のようなものになるだろう。

 

職業:フリーター

年収:120万円

貯金:ほぼ無し

投資:勿論していない

資産:これといって無し

 

月の手取りは4〜6万円ほどだが、

実家暮らしなので、

この年収でも基本的には何不自由ない暮らしだ。

 

さて、

こういう話をすると、

以下のような言葉を頂戴する。

 

「もっと働いたら?」

「将来それでどうやっていくの?」

「あなたならうちの商品のネットワークビジネスで上手くいくはず!」

 

これらは至極尤もなお言葉で、

反論の余地はない。

 

だが、

このブログの最初に挙げた

わたしの金銭的な側面は、

今、この瞬間の、わたしの状態を切り取ったものにすぎない。

 

それに対して、

将来の不安を煽り立てるのは、

人間の論理的な思考によって結実した情報、

又は不安になるよう固定された思考傾向によるところが大きい。

 

簡単に言えば、

世の中にはわたしたちを不安にさせる情報がたくさんあり、

そういう情報を何度も目にすることによって、

自動的に不安になってしまうように脳が勝手に働いてしまうということだ。

 

例えば、

相対的貧困公的年金の世代間格差、

老後に必要な貯蓄額、大手企業の倒産・リストラなど。

 

果ては、

「お金持ち上位8人の総資産」と「下位36億人の総資産」が

ほぼ等しいというデータまである。

(出典:オックスファム・ジャパン(2016年度調べ))

 

因みに、2015年度の報告書では

「お金持ち上位62人」と「下位36億人」がほぼ等しいという内容だった。

 

閑話休題

そんな情報の中で論理的に考えたら、

「本当にこの先、生きていけるのか……」

と不安になること必至だろう。

 

最後の例は極端だが、

それでも「今のままの自分では生き残っていけない」という不安から、

投資や副業を始める人の気持ちは分からなくもない。

 

ここで一度立ち止まって考えたいのは、

この「将来の漠然とした不安」を感じた瞬間に、

わたし(たち)がとれる選択肢は何だろうか?

という問いだ。

 

不安を解消するために奔走するのがその一つだろう。

又は、その不安から目を背け、日常に再び身を埋めるというのも一つの手だ。

 

しかし、

ここに挙げた二つを、

わたしは選びたくない。

 

なぜならば、

どちらも根本的な不安の解消にはならないからだ。

後者は言うまでもないが、

前者は、どんなにお金を稼ごうが、

お金がなくなるかもしれないという不安から抜け出せるわけではない。

 

それに、

仮にその不安から抜け出せるくらいお金が手元にあったとしても、

わたしはそのお金を元手に更にお金を増やして立ち回るほどの

器用さを持ち合わせていない。

 

では、

わたしはどのような選択肢を選ぶのか。

 

今のわたしの現実への向き合い方を

鷲田清一という哲学者の方が

この上ないほどに適切な言葉で表現して下さっているので、

そこから引用したい。 

 

それは

「「わからなさ」をいただく」*1

ことであり、

「「わからなさ」へとじぶんを開くというかたち」*2

なのである。

 

これらの言葉の説明をする為に、

今少し鷲田さんの言葉に耳を傾けて戴きたい。

 

政治的な判断においても、

看護・介護の現場でも、

芸術制作の過程でも、

見えていないこと、わからないことがそのコアにあって、

その見えていないこと、わからないことに、

わからないままいかに正確に対処するか

ということが問題なのである。

 

そういう思考と感覚のはたらかせ方を

しなければならないのが

わたしたちのリアルな社会であるのに、

人々はそれとは逆方向に殺到し、

わかりやすい観念、

わかりやすい説明を求める。

 

一筋縄ではいかないもの、

世界が見えないものに取り囲まれて、

苛立ちや焦り、不満や違和感で息が詰まりそうになると、

その鬱(ふさ)ぎを突破するために、

みずからが置かれている状況を

わかりやすい論理にくるんでしまおうとする。

その論理に立てこもろうとする。

 

わかりやすい二項対立、

それも一方の肯定が他方の否定をしか意味しない

二者択一というわかりやすい物語に飛びつき、

それにがんじがらめになって、

わからないことにわからないまま

正確に対処するという息継ぎできない

潜水のような思考過程に耐えられないでいる。

 

眼前の二項対立、

二者択一に晒されつづけること、

その無呼吸に耐えてやがてそれの外へ出るというのが

思考の原型となる作業なのに、

その作業を免れるほうばかりに向かっている。*3

 

「わかりやすさに流れる」というのがよく現れているのは

テレビのワイドショーだろう。

複雑な現実を分かりやすく図やグラフにまとめ、

誰が悪人なのか、何が問題なのかを分かりやすく解説してくれる。

そして、なぜこの手の番組がなくならないのかと言えば、

それは、「求められているから」に相違ない。

 

勿論、ワイドショーに限ったことではない、

「ためになる」系のTVのバラエティ、

書店に平積みされている本の表紙、

yahooニュース・ブログ等のタイトル、

セミナーの講義タイトル、等々、

きっと、挙げればきりがない。

 

これは何も、

分かりやすいことがいけないと言っているのではない。

本来、分からない筈であるものを、

あたかも「こうすれば分かる」

「こうすれば解決できることである」

「答えがある」等のわかりやすい物語にくるんでしまうことで、

その人の思考回路を狭く、閉じたものにしてしまうということなのだ。

 

「そうは言っても、お金がないと、ご飯も買えないよ?」

「お金に不安があるから、お金を稼ぐ」

 

こういう反応は、お金の有無に価値を置く考え方から抜け出すことができない。

これらは、広がりのない閉じた思考になってしまい、

お金の有無に苦しみ続けることになる。

 

勿論、こういう思考傾向は、

学校教育による賜物だ。

学校で教えられている内容から、

仮説のものを除外したら、どれほどのものが残るだろう?

例外のない法則を除外したら、どれほどのものが残るだろう?

 

本来は仮説でしかないものを「有力だ」というだけで

教科書を「答えの書いてある本」のように祭り上げてしまう

学校制度・入試制度が作り上げた幻想にわたしたちは包まれている。

 

それを打破するには、

「わからなさ」へと自分を開き、

そこにどのように向き合うのかが大切になってくる。

 

ここからは、

過去、そして今の自分へ向けた今の気持ち。

 

わからないことをわからないままに受け止める。

最初はその気持ち悪さに耐えられないだろう。

答えを探し求め、偶然見つけたものに縋りつきたくなるだろう。

探し求めるのは一向に構わないが、

見つけたものに執着してはいけない。

 

わからなさに常に自分を開いていれば、

そこにはそのわからなさを埋めてくれる「何か」が

常に入り込んでくる可能性を秘めることになる。

その余白を自分に残しておけるかが大切だ。

 

その余地・余白を、

つまらない情報で埋めてしまうことほど、

勿体ないことはない。

現代の停滞感・閉塞感から抜け出せる唯一とも言える方法は、

「わからなさ」に自分を開き続けられるかということなんだと今は思う。

*1:鷲田清一(2016)『素手のふるまい』,朝日新聞出版,p.98

*2:『同書』、p.114

*3:『同書』、p.107

「心理的安全性」と「腹」

居場所について、

こんな記事を見つけた。

 

gendai.ismedia.jp

 

これは、

見出しをキャッチーにするために、

「社員の生産性を高める方法」

としているが、

ここで言われていることは

別に生産性を高める方法に限らない。

 

この記事の中で

心理的安全性」という言葉が使われている。

 

この記事から引用すると、

「こんなことを言ったらチームメイトから馬鹿にされないだろうか」、あるいは「リーダーから叱られないだろうか」といった不安を、チームのメンバーから払拭

した状態を指す言葉だ。

 

要するに、

(誤解を恐れずに言えば)

素の自分を出せる環境のことだ。

 

「いい子」や「できる子」を演じている人には、

この心理的安全性の欠落(していると思っている状態)が、

学校や職場、家庭で苦しくなってしまう主な原因だとわたしは思っている。

 

そして、

この記事には、

心理的安全性を育むには何をすればよいのか」

という例として、

自身の病気について語った

日系アメリカ人の話が出てくる。

 

いわゆる

「腹を割って話す」

というやつだ。

 

ところで、

能楽師の安田登さんによると

腹は感情や意思を貯めるところなのだそうだ。

(安田登(2014)『日本人の身体』,ちくま新書

 

何かを決断するときは「腹を決める」「腹を固める」「腹を据える」。

 

怒りを感じたときは「腹が立つ」。

 

笑いがこみ上げたら「腹を抱える」「腹を切る」。

 

相手の考えていることを読み取ろうとするのを「腹を探る」「腹を読む」。

 

心の中にたくらみがあると「腹に一物」。

 

武士が腹を切るのは、

思うところに不純なものがない、

身の潔白を示すという意味が込められている。

 

逆に、

不純なものでいっぱいになると「腹黒い」となる。

 

そして、

言いたいことを言わないので

気が晴れないでいるのを「腹が膨れる」と言う。

(腹ふくるる思い)

 

言いたいことを言わないと、

腹が膨れてきてしまうのだ。

 

だから、

貯まってしまったら、

腹を割って話し、

貯まっていたものを出さないと不健康だ。

それを出させる土台となるのが心理的安全性だ。

 

そこで、

その土台を築く一つに、

「食事を共にする」というのがありうると思う。

 

昔から、

仲間のことを

「同じ釜の飯を食った仲」と言う。

 

逆説的に、

腹に同じものを入れると、

仲間意識が生まれるのだと

わたしは解釈したい。

 

だから、

食事の時間を共にすることで、

心理的安全性が生まれることを期待する。

 

最近は、

孤食という言葉がニュースでも使われるようだ。

孤食とは、文字通り一人でご飯を食べることを指す。

 

まずは、

家族で食事をすることができれば

それが一番よいのだと思うが、

それが叶わない人がいるのであれば、

次の仕事をしていく中で、

子どもたちの孤食を少しでもなくしていけたらよいなと思う。

 

「居場所」はどこにでもある

「ああ、これが居場所か」と

わたしが感じたときのことを

もう少し詳しく書いてみたい。

 

《世界》とわたしが

分断している感じがすると、

何度も書いてきたが、

 

この分断している状態のとき、

わたしの心理状態を端的に示せば、

 

「孤独」

「怖い」

「寒い」

 

となる。

 

 

《世界》に対して無関心なので、

趣味などはなく、

交友関係も極端に狭い。

 

それだけでなく、

誰かに相談することや、

頼み事をすることもない。

だから、

相談や頼み事をしないといけないときは、

心底うんざりしたものだ。

 

以上が「孤独」の由来。

 

 

《世界》との関係を絶っているので、

基本的には人を信頼していない。

 

信頼していないだけに留まらず、

基本的には疑心暗鬼の状態だ。

とにかく人を疑っている。

 

例えば

初対面の人と会ったときなら、

自分の容姿・言動・ふるまい・くしゃみや呼吸の仕方まで、

全てが悪口の対象になるんじゃないかとびくびくしている。

 

相手が仮にそんなことを意にも介さずに

話をしていたとしても、

気になってしまってしょうがないのだ。

 

人からどう見られているのか、

変なヤツ、ダメなヤツと

見られているんじゃないかと思うからこそ

他人の容姿や言動について、

見下すような思いがすぐに頭を支配する。

 

自分は勝っている、

と常に思っていたいわけだ。

劣っていることが怖いし、

他人に陰口を叩かれているんじゃないかと思うと、

それもとても怖い。

 

他人を信頼できないのと、

劣っていることが嫌なのと、

陰口を叩かれるかもという想定が、

「怖い」の由来。

 

 

最後の「寒い」というのは、

単純な比喩だが、

あったかいの反対の意味で使っている。

 

以上のような感覚に

常日頃から苛まれていたのだが、

「居場所」がこの現状に

衝撃を与えてくれた。

 

どのような衝撃かと言えば、

《世界》に対して

 

「孤独」

「怖い」

「寒い」

 

と感じていたのだが、

 

「(誰かと)つながっている」

「安心」

「あったかい」

 

とそれぞれに対して感じたことだ。

 

例えば、

一番上の「(誰かと)つながっている」というのは、

ハワイに行った体験が強く影響している。

 

ハワイの島の人たちは、

道をすれ違うだけでも

黙ったまますれ違うことがない。

 

最低でも「やぁ」という挨拶があり、

かなりの確率で「元気かい?」と訊かれる。

 

こんな人もいた。

「やぁ、元気かい?

 俺はあそこの学校の学生なんだぜ。

 機会があったら来るといいよ。

 いい1日を過ごせよ。じゃあな!」

 

これを、

すれ違っただけのわたしに話してくれるんだから、

孤独や恐れを感じていた自分には驚きだった。

 

他にも、こんなことがあった。

現地のタクシーを降車するときの支払いで、

旅も終わりに差し掛かっていたこともあり、

現金が1ドル足りなかった。

そのタクシーはカードも使えなくて、

1ドル足りないことを伝えると

 

「ああ、いいよいいよ。

 そのかわりさ、

 俺が日本行ったときに、

 空港まで迎えに来てくれよ!」

 

頭が上がらなかった。

イケメンすぎる。

 

ハワイの人たちは、

袖振り合うも多生の縁を地で行っている。

 

ハワイは、

道を歩いているだけでも、

タクシーに乗っただけでも、

「居場所」を感じることができた。

 

そこには、

「ハワイ島」という大きな場が、

「居場所」のようなはたらきをしているとすら思えた。

 

本来は、

常に、

誰かと「つながっている」のだ。

 

そこにいていいという安心感、

生きていていいんだという安心感が

そこにはあった。

 

そこにいる「人」次第で、

「居場所」なんてどこにでも作れるんだなと

思わせてくれた体験だった。

「居場所」がもたらすこと

「居場所」を別の言葉に置き換えてみると、

 

秘密基地

安全な場所

帰ることができるところ

受け入れてもらえるところ

 

こんな言葉になると思う。

 

この「居場所」は、

前回の記事では

「生きることの根拠」などと

仰々しい言葉で表したが、

非常に身近な問題と繋がっていたりする。

 

わたしの前の仕事の話で例えてみたい。

前の仕事は塾講師だった。

前の会社では教室をいくつも持っており、

曜日によって入る教室が違っていた。

 

教室が違えば、

教室を運営する人も違うので、

教室ごとにその運営する先生のカラーが

教室の雰囲気としてはっきり出ていた。

 

その中で印象的な教室があった。

それは、自由な空気が流れていて、

(自由といっても放任ではなく)

講師には仕事を任せてくれていることを、

生徒にはある程度本音を言えるやわらかさを

感じさせてくれるような教室だった。

 

わたしの話をすると、

わたしは責任のある仕事というのが苦手だ。

そういう仕事を任されたときには、

必ずと言っていいほど萎縮してしまう。

「失敗したらどうしょう・・・」などの

不安がつきまとうからだ。

 

しかし、

ここで不思議だったのは、

仕事を任されているのに、

変なプレッシャーはなく、

焦りや不安を感じずに、

自分が思ったように授業をすることができたのだ。

 

なぜ、

「失敗したらどうしよう・・・」

などの不安がなく仕事ができたのか。

 

それは、

その教室を運営する人が

「責任は俺が全部引き受ける」

という雰囲気を出しており、

その気概を感じることができたからだ。

 

つまり、

ここに「居場所」を感じていたのだ。

 

もし失敗しても、

この人なら受け入れてくれる、

挽回のチャンスをくれる、

という直感が働いたのだ。

 

緊張でガチガチに固まった心がほぐれ、

余裕が生まれることになったわけだ。

 

だから

心に余計な負荷をかけることなく、

適度な緊張感を持って仕事に臨めた。

 

更に、

副産物として、

「こうしてみようかな?」

「ああしてみようかな?」

といったアイデアを少しずつ思いつくようになったり、

それを実行に移すようになったりした。

 

緊張でガチガチのときは、

「失敗したらどうしよう・・・」とか

「言い訳はどんなのがいいかな・・・」とか

脳みその容量を、

ネガティブな方ばかりに使っていた。

 

しかし、

上に立つ人が「俺が責任はとってやる」と

態度で示してくれているだけで、

心に余裕が生まれ、

仕事場は改善に向かった。

 

このときの教室長には

本当に感謝しているし、

上手にこちらの能力を引き出してくれたと感じている。

 

 

 

「居場所」、

今回の記事では

安心できる場を提供する人がいることで、

その場が「居場所」となり、

職場が改善されるというケースを取り上げた。

 

不安や心配でいっぱいになっているわたしが、

「居場所」だと感じるところに行くと、

それらのネガティブな要素が消え、

ぽっかりとその部分に空白ができる。

 

そうすると、

元来持っている素質や才能が

その空白を埋め、

結果として発揮される。

 

これは、

どんな人にも当てはまると思う。

 

ただ、

その「居場所」にいるわたしが、

その「居場所」にいてもいいことを

自分自身に許可することができていないと、

効果を発揮しない場合があると思うが、

それに関しては、また別の機会に書こうと思う。

 

とにかく

この「居場所」というキーワードが、

教育や子育ての土台にあったら、

そこで育った子供は、

素質や才能をいかんなく発揮し、

のびのびと育つのではないかと想像できる。

 

ここで思い出すのは、

巨木トマトで知られる野澤重雄さんの話だ。

 

普通のトマトの種子を

ある条件下で育てると、

直径10メートル以上に生長し、

1万6千個以上の実をつけるのだそうだ。

 

そんな巨木トマトが育つ条件の一つに、

のびのびと育てる環境を整えてあげる

というものがある。

これはきっと、植物でも人間でも同じなのだろう。

 

「居場所」、

もう少し深めたいキーワードだ。。。

「居場所」について

《世界》への手触りを取り戻すための

最初のステップが見えた気がするので、

文章にまとめてみたいと思う。

 

《世界》とわたしが分断されている、

ということを

前までの記事に書いてきた。

参考:《世界》とわたしの分断 - 徒然花

 

要するに、

失敗や敗北感によって傷つく

ということに恐怖するようになり、

《世界》にどんどん無関心になり、

生きる気力すら失ってしまう状態のことだ。

 

そういう状態になると、

無気力・無関心が平常の常態になるので、

どんどん悪化していくと

引きこもり、ニート、フリーターなどの

社会現象を引き起こす。

 

では、

どうすれば、

《世界》への手触りを取り戻すことができるのか。

 

 

それは、「居場所」を見つけることだ。

 

 

今回の記事は、

この「居場所」がどんな場なのか見ていきたい。

 

 

 

まず、

「居場所」とはどういうところか。

 

それは、

無条件にそこにいることが許されている場

ということができる。

 

例えば、逆に、

無条件にそこにいることが許されていない場を考えてみると、

遊園地や会社がそれに当たるだろう。

 

遊園地は

入場料・入園料を払っているから、

そこにいることが許されている。

 

会社は、

会社に何かしらの形で貢献するから、

そこにいることが許されている。

 

上に書いたものは、

何かを対価に条件を満たすことで、

存在を許されている場所となる。

 

だからこういう場所では、

当然「無条件に」ここにいていいんだ

ということにはならない。

 

そうなると、

無条件にそこにいることが許されている場とは、

対価や条件を求めない場のこと。

 

わたしは最近、

この「居場所」を感じることがあった。

 

心地よい音楽が流れる中、

気が置けない間柄の人たちとテーブルを囲んで、

お茶を飲み、お菓子を食べ、冗談を交わして、

何をするわけでもなく時間がゆったり過ぎていく、

 

そんな何気ない時間と場が

わたしに「そこにいていいんだ」という

居場所を感じさせてくれた。

 

その場には、

何も目的がなかった。

 

そして、

何も求められることはなかった。

 

「そこにいる」

 

ただ、それだけでよかった。

 

この時間と場は、

わたしに「〜をしなければならない」

という義務感から解放してくれた。

 

また、

心を開ける人たちだからこそ、

そこにいる「だけ」が可能になった。

 

わたしにとってこの時間は、

あったかいと感じた瞬間であり、

安心を感じた瞬間であり、

ここにいて、もっと言えば、生きていていいんだと

感じた瞬間だった。

 

 

 

居場所とは

無条件にわたしを

この《世界》に包み込んでくれている場だった。

 

無条件に受け入れてくれたからこそ、

無条件に生きていていいんだと思えた。

 

生きる意味を求められず、

存在価値を問われず、

ひたすらに「そこにいる」ことを

受け入れてもらえた。

 

この体験は、

わたしが今日生きる根拠ともなりうる、

大切な体験の1つとなった。

 

《世界》と分断されていると感じていたのが、

《世界》との接点を得られた感じに変わった。

 

 

 

分断の解消は、

この「居場所」にヒントがありそうだ。

 

「居場所」については、

いずれまた別の切り口から書きたいと思う。

松岡正剛『多読術』

松岡正剛さんの

『多読術』という本を読んだ。

 

この本の中で、

「読書した内容を独り占めしない」(慎独)

ということが書かれていた。

なので、この本について書いてみようと思う。

 

この本にはたくさんの「読書法」

と呼ばれるものが書かれているが、

今回の記事では

この人の考え方の一部を、

本の中から紹介したい。

 

まず

本の内容に入る前に、

確認しておきたいことがある。

 

それは、

読書をするときに、

読む人は、

内容をきちんと読み取らなければいけない

という先入観にとらわれすぎている人が

多いということだ。

 

学校の国語の授業では、

確かに読みの正確さが要求された。

しかし、

読書は正確に読むだけが読書じゃない。

 

松岡さんは、

様々な本の読み方を紹介している。

その中でもわたしが興味深く思ったのは、

「(本は)読む前に何かが始まっている」

という考え方。

 

ある読者においしいものが、

他の読者においしいとはかぎらない。

 

それはどんな著者の

どんなテキストも同じことで、

ということは、

自分がその本に出会ったときの条件に応じて

読書世界が独得に体験されるということです。

松岡正剛(2009)『多読術』、ちくまプリマー新書

 

つまり、

本を読む場所や時間、

体調や精神状態、

その本を選んだ理由(それはジャケ買いかもしれない)、

また誰かから薦められた経緯などなど。

 

「読む前に何かが始まっている」

とはこういうことだ。

これは要するに、

読む本を通して自分を知ることができる、

ということだ。

 

例えば、

分かりやすいところでいけば、

「人から好かれる20の方法」

というタイトルの本を買ったとする。

 

この本を買った理由は、

おそらく「自分は他人から嫌われないようにしたい」という気持ちを持っているからだ。

 

つまり、

その不安な気持ちを

埋めてくれる本を探しているわけだ。

 

こうして、

選ぶ本から自分を知ることができる。

 

 

 

知ることができるのは、

何も不安な気持ちばかりではない。

自分の「好み」を知ることもできる。

 

著者のオススメの本の読み方に、

以下の2点がある。

 

1、自分の気になることがテキストの"どの部分"に入っているのか、それを予想しながら読むこと

 

2、読みながらリアルタイムに感じる、ということ。読んでいる最中に何を感じたかを書き込んでおくのがよい。

 

こうすることで、

自分の今の関心が浮き彫りになる。

自分が今、何に関心があるのか、

どのように思考しているのかを記録することができる。

 

この関心や思考の集積から、

自分の好みというものが徐々に見えてくる。

決して「好み」というかたまったものが

あるわけではないと著者は言う。

 

しばらくとんこつラーメンを食べていないから、

そろそろこってりとした

旨いラーメンを食べたいなと思っていても、

その日になってカラダの調子が

ラーメンに向かっていないこともある。

 

また、

ふだんはラーメンを食べたあとは

何も飲まなかったのに、

その日は食後にどうしても珈琲が飲みたくなった、ケーキを食べたくなったということもある。

 

そのように、「口にするもの」も自分では

気がつかないことがけっこうあるんです。

 

そこが重要なところで、

自分では気がつかないけれど、

実は「好み」というものは

細部においてはきわめて多様で、

複雑だということです。

 

その上に、

おおざっぱな「傾向」というものが

ぼんやり成り立っている。

 

「好み」は非常に多様で、

バラエティに富んでいるのです。

 

それが個性というものを

成立させている。

前掲 p.131-132

 

こう書いた上で、

「その「好み」の中身は、

自分でもだんだん発見していくものなんです」

と書いている。

 

つまり、

本は新しい知識を手に入れるためだけに

存在しているわけではなく、

自分を知るツールとして有効だということだ。

 

 

この本は、

よく見るような

読書術の本とは一線を画している。

 

しかし、

インタビュー形式で書かれているので、

語り口が易しく読みやすい。

 

読書ライフを

もっと豊かにしたい方は、

是非一読されたい。

わたしの閉塞感

いろんな人に

「君はフットワークが軽い」とか

「君は素直だね」とか言われる。

 

なんで言われたことをすぐ行動に移すのか。

それは取りも直さず、

今わたしが感じている閉塞感に由来する。

 

その閉塞感が、

わたしにとっての痛みであり、

早くそこから脱したいと思うから。

だから、やれることはやろうって思う。

 

わたしにとっての閉塞感。

それは、今の生活が、

今後何十年と続くということ。

 

「今の生活」が指すもの、

それは

別段楽しくない人生、

 

だけど食べていかなきゃいけないから

致し方なく就職をする人生、

 

やりたいことが何かあるわけじゃなく、

ただただ毎日が過ぎていく人生、

 

仕事はできないことが沢山あるから

段々「ここにいてはいけないかも。。。」

と思い始めて、苦しくなる人生、

 

そして

この苦しみが

あとどれだけ続いていくのだろう。

40年? 60年?

医療技術が進歩したら80年経っても

死ねないかもしれない。。。

 

そんな漠然とした不安がのしかかってくると、

「こんな辛いことが死ぬまで続くなら、

いっそ今、死んでしまった方がいい」

という思考の渦に陥る。

 

もちろん、

死ぬ度胸はないから、

自殺なんてしないし、できない。

退っ引きならない今がずっと続く。

 

だから、

嫌だ嫌だと言いながらでも、

毎日きちんと学校や仕事に行く人たちは

本当に凄いなぁといつも思う。

 

忍耐強いっていうか、

見ていて不思議に思う。

どうしてそこまでできるのか、と。

 

家族を持つと変わるよと

言ってくれる人もいるが、

家族を持つことは

煩わしさが増えるだけっていうイメージしか

今のところは持てない。

 

 

 

この辺りが、

自分が感じている閉塞感の大筋。

こういう閉塞感を抱えていると、

 

「自分が生きている価値はない」

「自分には何もできない(何もない)」

「現状が永遠に変わらない」

 

という、

このブログの一番最初の記事に書いた思いが、

むくむくと首をもたげる。

 

しかし、

今は、

この真っ暗闇に、

ぼんやりとした一条の光が差している。

 

更に、

「穴を埋める」という経験を通して、

世界の認識の仕方が雑であることを知ったので、

上に書いたような閉塞感にも、

いくつか取りこぼしている点があるのだろうと

今では思っている。

 

その取りこぼしを、

一つずつ拾い上げて、

わたしがもともと持っていた感覚を

取り戻していきたい。

 

また、

なぜ一条の光が差すようになったのかも、

折を見て書いていきたい。